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映画、ドラマ:戦争映画や時代劇が中心。アイドルやトレンディドラマの類は興味なし
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竹島はわれらが領地なり

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君主の出撃22

「君主の出撃」第22回目です。
普墺戦争の結果成立した北ドイツ連邦は明らかにプロイセンのヘゲモニーを推進する物となりました。それは軍隊に関して顕著に現れていました。要するに軍隊に関しては北ドイツ連邦は1つの国家として、プロイセン国王ヴィルヘルム一世を最高司令官としてまとまる事が決まったのでした。
これまでのドイツ連邦においては、連邦軍の構成要素は、連邦に属する各領邦が独自に編成していた軍隊の中から、領邦の規模に応じて派遣すると言う形を取っていたのですが、北ドイツ連邦においては、普墺戦争においてオーストリア方であったがためにプロイセンに併合された所も、プロイセンに与力した事で、連邦の一国として存在を認められた所も、軍隊的にはことごとくプロイセン軍に「併合」されたのでした。例外的にはザクセン王国だけが、ザクセン軍の状態を維持した状態で北ドイツ連邦軍第12軍団を称する事となり、その中の師団も第23、第24師団とプロイセンの規格に合わせた再編成がなったと言う事なのです。
そして、その第12軍団長として、普墺戦争においてザクセン軍を指揮してプロイセン軍に相対した王太子アルベルトが任命されました。そして、その弟であるゲオルクが指揮下の師団の1つである第23師団長に任命されました。
さて、普墺戦争当時存在していた2つのヘッセンとして、ヘッセン・カッセル、ヘッセン・ダルムシュタットが存在していたのですが、共にオーストリア方であったものの、前者の方だけがプロイセンに併合されてしまって、後者の方は一部領地を削られたのみで、後は北部の飛び地たるオーバーヘッセンだけが連邦に加わった状態で存続する事が認められました。よってこれからは単にヘッセンと言えば、このヘッセン大公国のみと言う事になりました。
さて、首都ダルムシュタットはその飛び地に含まれてはおらず、ヘッセン全体としての視点からするとそれは連邦に対して片足を突っ込んだ状態と言えるのでしたが、軍隊に限っては話は別でして、ヘッセン軍はプロイセン軍へ編入されて第25師団と再編成される事となりました。
実際、この後もこの師団長のなり手はプロイセン軍の将軍によって担われるのですが、初代師団長は大公ルートヴィヒ三世のおいルートヴィヒが任命されました。ちなみに彼は次期大公ルートヴィヒ四世であります。


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君主の出撃21

「君主の出撃」第21回目です。
普墺戦争において、ドイツ連邦軍第7軍団とはバイエルン1国での編成でしたから、第7軍団とはバイエルン軍そのものでして、軍団長は、国王ルートヴィヒ二世にとっては大叔父にあたるカールが務めました。
第9軍団はザクセン王国、ヘッセン・カッセル(ヘッセン選帝侯国)、ナッサウ公国の3国の寄り合いで編成されており、全てオーストリア支持と言う事でしたが、このいくさはおおむね東西二方面での戦いとなり、ヘッセン・カッセルとナッサウは西部での戦いに従事した事から、第9軍団は分裂状態でして、軍団として成立する事はありませんでした。それは東部においてはザクセン軍として存在するのみで、国王ヨハンの息子アルベルトによって指揮されていました。
そして、最後の第10軍団に関しては、プロイセンの敵対したのは主力となっていたハノーファー王国だけで、他は、後に寝返った国も含めて全てプロイセンに与力してしまって、ハノーファー軍そのものでしかありませんでした。ハノーファー軍の司令官自体は別途アレントシルトが任命されていた物の、国内にプロイセン軍が侵攻してくると言う本土決戦状態であった事もあって、失明状態ながら、国王ゲオルク五世もゲッティンゲンの本営に移動して戦いを指揮しました。
プロイセンとハノーファーの戦いはラングザルツァの戦いによって決着が付き、ゲオルク五世は捕虜となり、ハノーファー自体はプロイセンに併合され、ゲオルク五世は後に解放されて、オーストリアで暮らす事になりましたが、それより先に、プロイセンとオーストリアと言う最終決戦がありました。当然の事として、両国の戦力はドイツ連邦と言う枠に外れるだけの余裕を有していました。とりわけプロイセンは全軍で9個軍団を有していました。
プロイセン側は第1軍司令官として、国王ヴィルヘルム一世の弟カールの息子フリードリヒ・カールが、第2軍司令官として王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムが就き、ヴィルヘルム一世自身も参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケやビスマルクなどを同道の上でケーニヒスグレーツの近くまで進出して大本営を定めました。
7月に行われたこの戦いにおいて、プロイセンは勝利して、オーストリアはドイツの埒外へと追いやられる事になる、プロイセン主導の新たなドイツの幕開けとなる、北ドイツ連邦成立へと発展して行きました。


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役職・身分の掛け持ちと転籍81

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第81回目です。
関ヶ原合戦に勝利した後も徳川家の本拠地が江戸から離れる事はなく、その場において幕府が設定され、あまつさえ幕府直轄地の大半は関東地方に集中していたとは言え、決して家康にとってそれは「江戸藩」と言う物を維持しようと言う発想からの物ではありませんでした。
所詮江戸藩と言う物は、秀吉によって押し付けられた、限られた権限しか持てない代物でしかなく、秀吉と言う主がいなくなって、自身がそれにとって代えられるのであれば、江戸藩と言う物は、自身が成長してしまったために着られなくなった既存の服の如く用済み以外の何物でもないと言う事です。決して、将軍と江戸藩藩主とを兼ねると言う事はしなかったのです。
もし、その段階においてなお、江戸藩と言う概念が残っていたとしたら、それは日本全土にその権限が拡大したと言う事に他ならないのです。
後々譜代大名や親藩大名と定義された、はなからの家臣は元々は江戸藩の中にまとまっていたのが、加増の上で、全国に拡散して行ったのです。さらにそれとは別に、外様大名と定義された、それ以外の大名に対しても、家康の裁量で、加増、減封、改易、転封が行われました。
そして、その後の、江戸時代全時代において、全ての大名に対して賞罰や人事異動によって加増、減封、改易、転封が頻繁に行われるようになりました。その結果、関ヶ原合戦時に残った大名の中からも少なからず改易が生じ、幕末まで生き残った大名にしても、加増、減封、転封や、部屋住みの者に対する分知や新知が行われて、要するに全く変化のなかった大名家などほとんどいなかっただろう事が推測される所であります。
そうした事はもっぱら対象となる大名家ばかりか影響を受けるとは限らず、事によったらよその大名の転封も抱き合わせで行われると言う事は大いに考えられる事だし、また、領地の増減や移動が行われるためには、それを命じる幕府側にも必然的に影響が出ると言う事も否めません。新たに領地を与えるためには、幕府直轄地がその分減少すると言う事だし、転封の場合は、どこかの幕府直轄地との交換と言う事でして、幕府直轄地も頻繁に変化が生じている訳です。
こんな事を全国的に実施するためには、改めて江戸藩なんて物の存在を否定しなくてはならないと言う事なのです。


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君主の出撃⑳

「君主の出撃」第20回目です。
19世紀ともなりますと、ナポレオン一世を別とすれば、君主自身の出撃と言う事はかなり減少して来ている傾向が表れて来ましたが、その代わり、君主の近親者にまで話を拡大すれば、まだまだ掘り出しの余地はあります。
ナポレオン一世没落の後に、ヨーロッパには革命以前の体制を復活させるべく、ドイツでは神聖ローマ帝国にとって代わる、ドイツ連邦が結成され、連邦に所属する諸領邦は、領邦の規模に応じて軍隊を供出する事となりました。第1から第3軍団はオーストリアが、第4から第6軍団はプロイセンが、第7軍団はバイエルンが1国で供出し、それ以降は複数の領邦が寄り合いで編成しました。
さて、1866年には、普墺戦争が始まる事によって、こうしたドイツ連邦の体制は崩れてしまいました。そうなると連邦軍も、あらかじめ編成した通りに軍団がまとまって戦うと言う事がほとんどなかったと言う事です。第7軍団までは1国での編成でしたから論外としても、それ以下の寄り合いの軍団で曲がりなりにもまとまって戦ったのは第8軍団でした。
第8軍団はヴュルテンベルク王国、ヘッセン・ダルムシュタット(ヘッセン大公国)、バーデン大公国の三国寄合で、全てオーストリア方だったために、まとまる事が出来ました。当時軍団長であったのが、ヘッセン大公ルートヴィヒ三世の弟であったアレクサンダーでした。また、軍団所属のバーデン師団を率いていたのが、バーデン大公フリードリヒ一世の弟であったヴィルヘルムでした。いずれも庶子だったせいか、最初はそれぞれロシア軍、プロイセン軍に勤務したのが、普墺戦争においては、第8軍団に属してオーストリア方て戦う事になったのでした。
一方、第8軍団を構成したもう一国のヴュルテンベルクでは、いくさの直前まで師団長として、国王カール一世のいとこであったフリードリヒが就いていましたが、肝心な時になってオーストリア軍の中で連絡将校として派遣された事で、第8軍団の一員としての戦いからは外されました。
ヴュルテンベルク家と言えば、変わった所では、このフリードリヒの弟アウグストが当時プロイセン軍に勤務していて、近衛軍団長として、第2軍に属していました。幸いと言うべきか、兄弟相撃つと言う事がなく、共に普墺戦争中に死亡すると言う事はありませんでした。


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役職・身分の掛け持ちと転籍80

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第80回目です。
鎌倉時代には守護と言う、公家社会における国司にとって代えられるような制度が発足します。それは室町時代には、ある種の発展を遂げて、守護大名と言う概念を生じさせました。有力な大名ともなりますと、何か国物守護を兼ねて、実際の統治はそれぞれに対して守護代を用意する必要に迫られるほどになりました。
守護と言う制度は、単に、戦国時代以降の大名に比べて、その権限が制約されていたのみならず、その範囲と言うのも、あらかじめ定められていた中に限定されていました。それだけにある者にとっては複数の守護を兼ねると言う概念が「必要」になっていたのです。
それに対して戦国大名以降ともなりますと、その種のある種の制約と言う物がなくなって行き、もっぱら実力において、その範囲を定めて行くようになりました。
そこでは、別段特定の国と言う物に捉われる必要がなく、元の国において一部しか支配できていなくても、隣の国に版図を広げた方が容易だと割り切ってしまえば、そのような版図拡大も勝手次第の状態でした。実際、伊達政宗などは、米沢と言う、出羽の国の生まれながら、出羽の統一にこだわる事なく、陸奥の国に版図を広げて行った事は周知の事でしょう。
そして、豊臣秀吉の天下の元で、徳川家康が小田原の陣以降、関東地方に広大な領国を認められるようになりましたが、室町自体の制度ならば、それは複数の守護を兼ねる事になっていましたが、既にそれは消滅してしまった制度でして、国と言う概念と無関係にただ、そこが小田原北条氏の旧領と言う事で家康の知行地が設定されたのでした。
後世、藩と言う制度は公式には、明治維新から廃藩置県の時までの短い期間にのみ存在していた事になっていたのですが、慣習的には江戸時代の大名領国も藩と言われるようになっていたのですが、一方、秀吉の時代の大名領国が慣習的にも藩と称される事はありませんでした。
ここであえて、その時代の大名領国も藩と称するのであれば、さしずめ家康の領国は江戸藩とでも言いましょうか。関ヶ原合戦の後、徳川家の天下が確立し、3年後には家康は将軍に就任し、江戸幕府が成立するのですが、当然の事として、それは江戸藩の政府が拡大した物であって、決して別個に幕府ができたのではないのです。


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