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ドイツ元帥物語④

「ドイツ元帥物語」第4回目です。
王族の人間が将校として勤務すると言う事は珍しい事ではありませんが、それはあくまで、自国の軍隊の規模がそれなりに大きければの話でして、小国の場合は、よしんば王族、そもそもそれを王国とは言えない場合も少なくいないのですが、ヴュルテンベルクは1805年になって王国を称する事ができました。
さて、改めて小国だと、王族だろうとも、自国の軍隊体で勤務できるとは限らない物でして、初代国王フリードリヒ一世の弟のひとり、ヴィルヘルムは最初、デンマーク軍において勤務して、1806年、ヴュルテンベルクに戻って、元帥に任じられ、ついで軍事大臣に就任しました。
もうひとりの弟、フェルディナントは1781年、ハプスブルク帝国に中佐の階級で入隊し、以降、フランス軍相手のいくさに従事し、1793年のコンデ包囲戦では勝利をおさめ、1796年には大将に昇進したものの、6月のアルテンキルヒェンでの戦いに敗れた事で、解任されました。
1805年には元帥に任命されたものの、もはやいくさに出撃する事はなく生涯を全うしました。


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役職・身分の掛け持ちと転籍117

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第117回目です。
ハプスブルク帝国の解体によって、多くの人間が好むと好まざるとにかかわらず、所属する国の変更に直面しました。それはハプスブルク家の人間にとっても言える事でして、皇帝カール一世はスイスへ移住を余儀なくされました。まあ、こうした事は没落した君主にとっては良くある事ですが、それ以外の一門の人間の中にはそうでない形でのよその国への変更を選択した者もいました。
エースターライヒ・テシェン家のカール・シュテファン親子は、ポーランドを選択しました。現代の感覚、とりわけ韓国の感覚からすれば理解しがたい所でしょう。ポーランドからすれば、ハプスブルク帝国は自国の大半を支配した国でして、そこの君主の一門を受け入れたいとは思わないと見られるのが当然の所ですが、ハプスブルク法によってオーストリアにおいて財産の保有を禁じられたカール・シュテファンとしては、縁戚に当たるスペイン国王の口添えで、一旦は没収されたはずのポーランドでの財産の返還が認められた事で、ポーランドに定着する事となりました。
そして彼の2人の息子は、ポーランド軍に入隊し、後のポーランドのためのいくさに従事しました。そして第二次世界大戦のころに存命していた長男カール・アルブレヒトはドイツ相手のいくさに従事し、捕虜になった後、民族ドイツ人になる事を拒否して虐待されました。


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ドイツ元帥物語③

「ドイツ元帥物語」第3回目です。
カール大公指揮の下で、ドイツ西部での戦いは優勢だったものの、フランスは、イタリアにおいてボナパルト指揮下で優勢でして、カールはこの方面での迎撃のために転戦する事となりました。そして1797年、レオーベン条約を経て、カンポ・フォルミオの和約を成立させましたが、ほどなく、ライン川で舞い戻っていくさを指揮しました。
そして1800年、健康状態悪化によって休養に入るも、長続きせず、いくさの指揮を執り、翌年、シュタイアーの停戦を経て、リュネヴィルの和約へとこぎつけました。この功績は広くドイツでも評判となり、神聖ローマ帝国の帝国会議において「ドイツの救世主」の称号が提案されるほどとなりました。その称号自体はカールは辞退したものの、この年、ハプスブルク帝国においても元帥に任命されました。
この後、カールは、宮廷戦争会議議長に就任して、軍の再編成に当たり、フランス相手の新たな戦いに臨みます。
1809年、アスペルン・エスリンクの戦いにおいて、ナポレオン一世親率の軍隊相手勝利した事があったものの、ほどなく、ヴァグラムの戦いで敗れ、その時重傷を負い、以降長い引退の人生を歩む事となりました。


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役職・身分の掛け持ちと転籍116

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第116回目です。
既に紹介した事のある、ハプスブルク帝国生まれのレンデュリックはクロアチア人でありながら、第一次世界大戦後、ユーゴスラヴィアではなく、オーストリアの方を選んだように、ロシア帝国生まれのポーランド人の中には、ポーランドを選ばずにロシアのなれの果てたるソ連を選んだ者もいました。
そのひとりが、ロコソフスキーでした。彼の場合は、ドイツやオーストリアのように、単に共和化された既存の国の中での事にとどまらず、ソ連と言う共産主義国こそが新たな居場所となった訳でして、それは単なるおんなじ国にとどまったと言うよりは、それもまたさながわよその国へ移ったと言えるほどの変化ではないでしょうか。
第二次世界大戦後、ポーランド人であると言う事から、ポーランド人民共和国からの「要請」で、ポーランドに出向し、国防大臣、閣僚会議副議長となり、すでにソ連邦元帥でありながら、別途ポーランド軍元帥にも任命されました。1956年にポーランドで反ソ機運が高まると、ロコソフスキーは武力での鎮圧を目指すも、ポーランドの方ではゴウムカがフルシチョフを説得して、ポーランドの自主性を認めさせ、その結果、ロコソフスキーはソ連へ帰還しました。


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ドイツ元帥物語②

「ドイツ元帥物語」第2回目です。
俗にハプスブルク帝国と言っても、それ自体は単なる多数の君主国の集合体として成り立っていて、皇帝の称号に関しては、神聖ローマ帝国のそれに依存していたハプスブルク家も、1804年、フランスにおけるナポレオン一世の即位に伴い、ハプスブルク帝国においても、その領国をひとまとめにする君主の称号として皇帝が必要となって来ました。
その結果、神聖ローマ帝国としては最後の皇帝たるフランツ二世は、ハブスブルク帝国としてはフランツ一世を称する事となりました。元帥の話も、また、このような過渡期な状態を代表する人物としてフランツ二世(一世)の弟であるカール大公をまずは取り上げましょう。
当時としては、まだ皇帝の弟と言う事が大きく物を言って、1792年、わずか20歳で対仏戦でのいくさに出撃し、その年の、21歳の誕生日には少将に昇進しました。
1793年にはフランスからベルギーを奪回して、その地の総督に就任するも、翌年には早くもフランスに奪回され、あまつさえ健康を害した事で、ウィーンにもどり、捲土重来を期す事となりました。そして1796年、神聖ローマ帝国において元帥に任命され、ライン方面軍司令官として対仏戦に出撃する事となりました。


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