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映画、ドラマ:戦争映画や時代劇が中心。アイドルやトレンディドラマの類は興味なし
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ドイツ元帥物語124

「ドイツ元帥物語」第124回目です。
1945年4月、ドイツにとっては万事おしまいの時期に入っていました。それは空軍とても例外ではなく、その末期的なエビソードとして、ゲーリングを上げましょう。既に空軍の凋落は著しい物が明らかとなってはいた物の、総司令官の地位は、その他の多々の役職共々ゲーリングは維持していましたが、23日にそれは一気に崩壊する事となりました。
ゲーリングは、ヒトラーがもはやおしまいの状態にある事を自覚して、後はゲーリングが国家主席としての役目を果たすべきだと判断するのではないかと、お伺いを立てた所、ヒトラーは激怒して、彼の全役職を取り上げる事としました。
さて、後任の空軍総司令官とは言うと、既存の元帥に関してはほとんどの者はヒトラーからすれば見限って存在でしてかなく、それに当てはまらない状態にあるケッセルリングですらも新たな空軍総司令官として任命しませんでした。彼に関しては依然として陸でのいくさの指揮を執らすべしと言う認識に立っていたと言う事でした。果たして後任の空軍総司令官には、第6航空艦隊司令官のグライムを元帥に昇進させた上で任命しました。後任の第6航空艦隊司令官は第4航空艦隊司令官であったデスロッホでした。

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諸国大将比較34

「諸国大将比較」第34回目です。
前々回に、具体的に1865年生まれと言う数字を出した訳ですが、それはエーリヒ・ルーデンドルフの事を意味します。
ルーデンドルフは、大戦初期には、東部戦線の窮地において、第8軍参謀長として、司令官ヒンデンブルクと共にロシア軍の侵攻を阻止して、タンネンベルクでの勝利をもたらし、大戦後半にはヒンデンブルクと共に参謀本部に入って、最高統帥は言うに及ばず、国政にまで容喙して、俗に言われるルーデンドルフ独裁と言う物をもたらしたばかりか、ヴァイマル時代の初期に至っては、ヒトラーとつるんでミュンヒェン一揆を主導した有名人であります。
そんな人物が大戦半ばの1916年8月29日に大将に昇進しました。これまで他の人間に関しておもむろに取り上げた物でしたが、それらはルーデンドルフよりも年長であっても、大将昇進では後だったり、あるいは大将昇進がかなわずに軍歴を閉じたと言う者もいたと言う事を示しました。
それは、やはりこの年齢であれば、よしんば大将昇進ができたとしても、もっと後の頃だろうと推測せざるを得ない物でして、ルーデンドルフも、無名なその他大勢の大将のひとりであったならば、大将昇進はもっと後のはずだろうと推測したに違いありません。当時としては、たった51歳の大将と言う事で、一般人の中では最年少でした。




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日本は中将が多い⑤

「日本は中将が多い」第5回目です。
陸軍で師団が天皇直隷の組織として位置付けられるのならば、それに対して海軍では艦隊が天皇直隷の組織となっています。よって、艦隊の指揮官たる艦隊司令長官は親補職として中将が任命されると一旦は断定したい所ですが、個々の艦隊の中身によっては、厳密な意味で天皇直隷とは言い難い物もあるようでして、そうした艦隊の指揮官は司令官と称され、よって少将が任命される事になっていました。
海軍は必然的に陸軍に比べて人間の頭数では劣る傾向がある物でして、陸軍ですら、初期の段階にあっては中将ですら希少価値が合った時代が、海軍ではもっと後の時期まで存在していました。実際日清戦争開戦時には、制度として存在していた海軍大将が、海軍の規模がそれに追い付いていない事から、ひとりもいなかったのでした。
後に言われる海軍三長官たる海軍大臣、軍令部総長(当時は軍令部長)、連合艦隊司令長官共に中将でした。それぞれ西郷従道、樺山資紀、伊東祐享で、しかも、前者の2人に至っては元々陸軍軍人であったのが、海軍軍人へと転籍していたのでした。


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ドイツ騎兵の興亡⑬

「ドイツ騎兵の興亡」第13回目です。
1944年末には、ソ連軍はハンガリーに侵入し、武装SSの2つ騎兵師団はブダペスト防衛に当たる事となり、その状態でブタペストは包囲されてしまいました。
その戦いは翌年の2月まで続き、武装SSの騎兵師団を含むドイツ軍の部隊は壊滅してしまいました。その中から脱出できた少数の兵士を含めた形で最後の武装SSの騎兵師団として第37SS騎兵師団が編制されました。もっとも、この師団も、およそ騎兵師団どころか、擲弾兵師団と称するほどの兵力があったとは言い難いのですが。
一方、この時期には陸軍の騎兵も兵力的にはともかくとして、師団へと最後の拡張を行いました。既存の第3、第4騎兵旅団は第3、第4騎兵師団となりました。これらの師団は、ブダペストに対する救援作戦に参加しましたが、失敗し、後はソ連軍の追撃をかわして、西側連合軍に対して降伏するための撤退行動が終戦まで続けられました。


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ドイツ元帥物語123

「ドイツ元帥物語」第123回目です。
武装SSの筆頭者たるヨーゼフ・ディートリヒは1944年9月に新設された第6SS装甲軍司令官に就任していました。
第6SS装甲軍は武装SSの装甲師団をいくつも抱え込んでおり、ヒトラーにしてみれば最後の切り札とも言えまして、12月のアルデンヌの戦いに投入された物の、失敗に終わり、ついで、年が明けると、東部戦線のハンガリーへ送られて春の目覚め作戦に投入されました。
ヒトラーはディートリヒのために武装SSの階級として民族元帥を用意していて、勝利の暁にはその階級に昇進させてやろうと意図しましたが、ハンガリーでの作戦だに成功する事はなく、民族元帥は幻の物となったばかりか、第6SS装甲軍に属していたLAH師団、そしてディートリヒが着用していた「アドルフ・ヒトラー」と入っていたアームバンドの着用を禁じる指令が出ました。
それに対してディートリヒはヒトラーの命令に反して、合理的な戦いを推し進める方向に終始する事に徹して、すなわちソ連軍から逃れる事を優先する事にしました。
このような事態ともなれば、ヒトラーとしてはディートリヒを罷免しても良さそうな物ですが、そこまでには至らず、ディートリヒは終戦まで第6SS装甲軍を指揮する事が出来て、ソ連軍から逃れてアメリカ軍に降伏する事でいくさを終えました。


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