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竹島はわれらが領地なり

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役職・身分のかけ持ちと転籍37

「役職・身分のかけ持ちと転籍」第37回目です。
第二次世界大戦時のイタリア国王として、ヴィットリオ・エマヌエーレ三世がいました。彼が在位中においてエチオピア戦争以降、イタリアの領地獲得の過程で、エチオピア皇帝、アルバニア国王、モンテネグロ国王の地位を兼ねる事となりました。もっとも、だからと言って、それらの君主の分別個に政府が存在していた訳ではなく、それらは、副王や総督が任命されて、結局、イタリアの属領地としての統治が敗北の時までなされていました。
つまりそこでは、実質的には併合でしかない行為でありながら、君主としての称号だけは、その地の統治の正当性のためか、生き残る事となりました。このような事は、ヨーロッパにおいては良くある事でして、よしんば統治においてはひとつの国家として一元的な物だったとしても、同君連合と言う形でいにしえからいろんな所で存在していた物でした。
このイタリア王室サヴォイア家は大陸部のフランスに近いサヴォイアに源流を発する家でして、最初はサヴォイア伯、次いでサヴォイア公を称していたのが、18世紀においてサルデーニャ島を獲得した事から、サルデーニャ国王を兼ねる事となりました。ただし統治に関しては一元的な物でして、サヴォイア家の領地全体としてピエモンテ・サルデーニャ王国とも言われるようになりました。
このサヴォイア家こそがイタリア固有の王室において最有力と目されていて、19世紀の後半に、南ではスペインのボルボン家からに流れである両シチリア王国を併合し、北ではハプスブルク領を侵食し、中央ではフランス軍がいなくなった教皇領に進駐して、それらを併合してイタリア王国とする事に成功しました。
ナポリとシチリアの総称たる両シチリア王国自体は久しくスペインによる支配が続いた国でしたが、そのスペインからして、必ずしも固有の王朝による支配とは限らず、その結果、両シチリア王国の王朝にも、そうした外来王朝の影響が及んできて、ハプスブルク家やブルボン家(スペインではボルボン家)や、はたまたナポレオン一世台頭の頃は、ナポレオンの兄のジョゼフがナポリ王になり、次いでミュラが即位し、両シチリア王を称していました。

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役職・身分のかけ持ちと転籍36

「役職・身分のかけ持ちと転籍」第36回目です。
陸のいくさが絡むと言う事なのでしょうか。ロンメル自身はリビアにしかるべき司令部を設置しても、そこにあまりいる事がなく、装甲車に乗って、頻りに前線を駆けずり回す傾向が多く、その事で、ケッセルリングは、司令部に残留している幕僚に対して苦言を吐いた物です。
それに対してケッセルリングの方は、直接指揮する第2航空艦隊だけでもイタリアにいる以上、前線に近い所に司令部を設置する必要はないし、南方総軍総司令官としての役目もある以上、その司令部は必然的にローマに置かれていました。何しろ、イタリア軍との調整役と言う事がありますからね。ケツセルリングも、彼なりにイタリア軍高官連中の好意に与る必要があると言う自覚があった事は否めません。
さて、当時のイタリア軍には親独的傾向が強いカヴァレロが参謀総長として着任していましたが、親独傾向が強くても、イタリア軍高官のご多分に漏れずロンメルに対する好感を持ち得ず、ケッセルリングを通じて北アフリカでの枢軸軍のつつがないいくさの進展に力を注ぐ事となりました。
1942年5月、アフリカ機甲軍はトブルク攻略を目指して、2つの集団に分割されて出撃しました。前者はロンメルが直接指揮する集団で、これは機動力を有する、アフリカ軍団とイタリア第20軍団が属していて、トブルク正面にあるガザラ陣地を迂回して、直接トブルクを目指す物でした。後者は主にイタリア軍の歩兵部隊からなるクリューヴェル集団で、直接ガザラ陣地の攻略を目指す物でした。
しかし、そのいくさの半ばにおいて後者の集団の指揮官であるクリューヴェルが捕虜になると言う椿事が生じたので、おりしも近くまでやってきていたケッセルリングがその集団の指揮を執る事で、ガザラ陣地に対する攻撃は継続されました。
本来ならば、こう言う状態になってしまうと、アフリカ機甲軍全体の指揮まで直接ケッセルリングが執る事が可能になって、陸のいくさにおけるロンメルの権限が縮小する事もあり得たのでしたが、ケッセルリングはあくまでクリューヴェル集団の指揮を引き継ぐだけで、ロンメルが立てた筋書きの中でいくさをするのが好ましいとして、依然として陸のいくさに限ってはロンメルが最高指揮官である状態を維持したのでした。

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役職・身分のかけ持ちと転籍35

「役職・身分のかけ持ちと転籍」第35回目です。
ケッセルリングが任命された南方総軍総司令官とは、その中に彼が直率する第2航空艦隊と、ロンメルが率いるアフリカ機甲集団があり、すなわち、東部戦線の軍集団のように地上軍が2つも3つもあると言うような状態になく、そのような状態だと、陸のいくさはロンメル任せにしても良いはずでして、格別地上部隊に関する幕僚を別個に持つ必要があるとは言えません。それはさながら、後に取り上げる予定の、帝国海軍の南東方面艦隊のような物と言えましょう。
南東方面艦隊の実態は、別途に艦隊司令部が編成される事はなく、第11航空艦隊司令長官が第8艦隊司令長官よりも先任だった事から、南東方面艦隊司令長官を兼ね、かつ、その幕僚も第11航空艦隊の幕僚が兼ねると言うありさまでした。ドイツの南方総軍もそのような状態で司令部が成り立ったのでした。
さて、地中海におけるドイツ軍の助っ人は、アフリカ軍団が初めてではなく、それに先んじて空軍が第10航空軍団を派遣していました。その軍団長たるガイスラー中将は、元々海軍軍人で、一旦は海軍航空隊の創設を望んだ物でしたが、ゲーリングによって、航空隊は空軍のもっぱらにすると言う意図からそれは断念せざるを得ず、空軍に移って、その中で「海軍航空隊」の創設に当たり、その結果、対艦戦闘に特化した第10航空軍団が出来上がったのでした。
それは空のいくさと言う事で、軍団自体はイタリアへ派遣されたものの、統率に関してはドイツ空軍が独自に行う事が出来ましたが、アフリカ軍団と言った地上部隊に関してはそうは行かず、本来ならばイタリア軍の北アフリカ軍に属しての戦いとなるはずでしたが、その実態はロンメルの方で独自にいくさを展開し、イタリア軍の方で彼の指揮下に収まって、アフリカ機甲集団としてまとまってしまう状態でした。
これがなければ、年末にやって来たケッセルリングの助っ人も、第2航空艦隊司令官だけでいれば良かったのですが、ロンメルがより大きな権限を得てしまったのみならず、当然の事ながら、そのような状態をイタリア軍の高官連中としては良い気分でいるはずがなかったのです。
よってケッセルリングの役目として重要視されるのは、イタリア軍高官連中にとっての嫌われ者であるロンメルとの調整役と言う事が上げられるのでした。

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役職・身分のかけ持ちと転籍34

「役職・身分のかけ持ちと転籍」第34回目です。
イタリアがドイツから受け入れた助っ人の代表的な存在として、ロンメル率いるアフリカ軍団でした。本来それは、リビア総督兼北アフリカ軍総司令官たるガリボルディ大将の指揮下で、他のイタリアの軍団と等しく動くべきだったのでしたが、ロンメルは前線にあるイタリア軍までも指揮して、トブルクを包囲し、エジプト国境まで進出してしまいました。
要するにロンメルのかくかくたる武勲とはガリボルディの意向とは無関係な所で生じた物でして、彼にしてみれば面白い物ではなく、すぐにバスティコにとって代わられましたが、彼にとってもロンメルは好意の持てる人間とはならず、反目頻発となりました。
さて、1941年も押し詰まって来ると、イギリス軍のクルセーダー作戦が功を奏して枢軸軍は年初のほほ同じところまで引き下がる事となり、ここに至って、ドイツ軍はさらなる助っ人を派遣したのでした。それが東部戦線で戦っていた第2航空艦隊でした。この第2航空艦隊の司令官たるケッセルリングですが、元々は陸軍軍人だったのが、再軍備以降空軍に移りました。
この人物に関しては、1つ架空の話とて、イギリスで出版された「ヒトラーの選択」と言う本に出ていました。それは架空戦記本と言う事ですが、日本で良くある小説とは一線を画す、専門家によって執筆された物でした。その中の1つとして、ヴォータン作戦と言う物がありまして、その作戦では4つの機甲集団を1つの軍集団たる機甲軍集団にまとめて、モスクワを背後から攻めると言う作戦でした。
その作戦を行うに当たって、ヒトラーはケッセルリングを機甲軍集団司令官に任命したのでした。この決定は開戦前からの物ではなく、開戦2か月たってからの物でして、当時ケッセルリングは史実通り第2航空艦隊司令官として、中央軍集団の作戦を支援していましたが、それとの掛け持ちで機甲軍集団司令官に就任したのでした。
作品中では幕僚に関しての記載はなかったのでしたが、4つも機甲集団を率いる以上、機甲軍集団自体にも別途幕僚が不可欠だったとは否めないでしょう。
史実においてはそのようないくさに従事する事がなく、地中海へ移る事になった訳ですが、そこにも南方総軍総司令官と言う新たな役職が抱き合わせとなっていました。

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役職・身分のかけ持ちと転籍33

「役職・身分のかけ持ちと転籍」第33回目です。
イタリアのファシスト四天王の1人として、イタロ・バルボがいます。第一次世界大戦に参戦し、終戦時には大尉まで昇進しましたが、格別そのまま軍隊に残ると言う事をせず、その後は文民としてファシスト党の幹部として立身して行きました。
1926年、彼は空軍大臣に就任しました。それはいまだ文民である時の話でした。日本でならばそれはもっぱら軍人しか就けない役職でしたが、よその国では必ずしもそうではないと言う一例です。ただそれは軍事にかかわる事と言う事でして、空軍の充実がかなうと、空軍大将、次いで元帥に任命されました。このバルボの元でイタリア空軍の威信が国際的に広く認知されるようになりました。
さて、それから7年たって、大臣の任期が終わると、次の役目としてあてがわれたのがリビア総督でした。ナチスドイツと違って、イタリアでは外地統治の権限は党の幹部のもっぱらとする事はなく、軍人頼みと言う事になっていました。それは現地の司令官とのセットと言う事だったからです。現にバルボの前任の総督として、後にクーデターによって、ムッソリーニの後任として総理になったバドリオが就任していました。
ファシスト四天王の中にはエミーリオ・デ・ボーノのような元帥もいて、彼も総督として外地地勤務と言う事がありましたが、イタリアの場合は、ドイツ比べて、ファシスト党の権限の一部をプロパーの軍人に委ねる傾向があったと言えましょう。
バルボのそうした人事は中央からの左遷と言う向きもあったにせよ、よしんばファシスト党の幹部だとしても、軍人でなくては総督と言う地位に就く事は出来なかったと言う事が言えるのではないでしょうか。まずは空軍大臣に就任する事で、空軍元帥と言う高位の軍人としての地位を得る事が事前にあったからこそ、その後の人事としてリビア総督就任が可能になったと言う事が言えるのではないでしょうか。
第二次世界大戦では、ドイツに対して批判的だった物の、リビアがエジプトに隣接していたために、1940年にイタリアが対英仏宣戦布告に至ると、こちらの方でもいくさが始まり、その半ばにおいて友軍の誤射において死亡しました。
そしてバルボの後任として総督に就任したのがロドルフォ・グラツィアーニでした。この時になってようやくエジプト侵攻が始まりましたが、大失敗でして、翌年になってドイツからの助っ人を必要となってしまいました。

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