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竹島はわれらが領地なり

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出世の定義③

「出世の定義」第3回目です。
帝国海軍の井上成美は昭和16年、第4艦隊司令長官に就任しました。艦隊司令長官は親補職でして、それにあると言う事は単なる中将よりもましな状態にあると言えるのが建前でした。宮中席次においては単なる中将であれば19番目であるのに対して、親補職であれば15番目に位置づけられます。
そう言う意味ではそれは一種の栄転と言えるのですが、だからと言って、一旦親補職に就いたら、それ以降親補職以外には就けないと言う事はなく、中将で勤まる役職の中での人事異動は珍しくもないのですが、曲がりなりにも一時的にも、親補職であれば単なる中将よりもましな状態にあると言う事が言えます。
それはあくまで制度上の上での事であって、慣習的な見地からすれば必ずしもそうとは言えません。同じ艦隊司令長官でも、第2艦隊であれば、決戦用の艦隊ですから、掛け値なしの栄転と言えるのですが、第4艦隊は中部太平洋警備のための艦隊で、その中身は実にしょぼい物でした。それだけに栄転とは名ばかりで実際の所は左遷ではないかと言う風に解釈できる人事でもありました。しかも井上は、けっこう歯に衣着せない発言が多く、それだけにうざく思う人間が少なくなく、そう言う人間からすれば厄介払いしたい人間でもありました。
さて、翌年には海軍兵学校校長へと転任しました。それは親補職ではなく、その人事によって単なる中将に戻りました。そしてさらに昭和19年になると、小磯内閣の下で海軍次官へと就任します。それは依然として親補職にあらず状態でしたが、この時は特別親任官待遇を賜る事となりました。
宮中席次において15番目は正確には、この、親任官の待遇を賜った者とありますが、大抵の場合は親補職に就いた者を指しますが、井上はこれによって宮中席次で15番目に復帰します。
さて翌年には大将に昇進しますが、それは同時に海軍次官でいられなくなる事を意味しました。大将はそれ自体が親任官でして、海軍次官は大将の階級にふさわしくない低い役職だと言う事だったのです。その代わり親補職の1つである軍事参議官に就任しますが、それは格別なにがしかの役職をあてがえないが予備役にしないで現役に留めておくべき大将にあてがう閑職とも言える物でして、それは井上にとってはある種の左遷でありました。

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役職・身分のかけ持ちと転籍⑦

「役職・身分のかけ持ちと転籍」の第7回目です。
日露戦争の結果、旅順を中心とする関東州と長春までの満鉄並びにその付属地が我が国の領地となって、その統治のために関東総督、次いで関東都督が任命される事となりました。このような名称が出て来ると、それは武官なのか文官なのかと言う色分けで迷ってしまいます。共にその権限の中に関東軍司令官としての権限が含まれていたために、それは必然的に軍人しか任命できない状態になっていたとは言え、台湾総督の例もある訳でして、一概にその役職が武官として色分けできるのかと言う点で疑わしい所であります。しかも、台湾総督のように最後まで存在していた役職と言う訳ではなかったために、判断が付けられない所であります。
台湾総督に関しては、軍事に関する権限を排除して、もっぱら民政に関する物だけ残す事によって、総督と言う名称はそのままで文民でも勤まる文官として変貌を遂げたのに対して、関東都督の場合、そこから軍事に関する権限が排除される過程で、関東長官と言う名称に変更されました。
関東長官は文官でも勤まる文官に他ならない訳ですが、文官になれるのは文民のみと言う訳ではなく、満州事変が終わって満州国ができた後の昭和9年のわずかな時期には関東軍司令官の兼務を経て、(関東庁が)在満州大使館関東局と関東州庁へと再編されると、関東軍司令官は満州国駐在大使の兼務と変化して行きました。
さて、第一次世界大戦の中部太平洋に南洋庁の前身とも言うべき、臨時南洋群島防備隊と言う物が存在していました。それは元々ドイツ領であったそれらの島々の占領を果たした帝国海軍の陸戦隊が守備隊としての役目を担っていたのにならず、現地の統治も行っていた物でした。それは占領地の統治に他ならず、平時の統治と異質な軍政であった事から、統治に当たる長官は、司令官たる武官でありました。
そしてそれが公式に日本領として民政へと移行する過程で南洋庁へとなり、その長官は紛れもない文官でありましたが、こちらでも文民だけか文官になれるとは限らないと言うケースがありました。大東亜戦争後半になってかつて第5艦隊司令長官であった細萱戊子郎が予備役に引き下がった状態で長官に任命されて終戦を迎えました。

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役職・身分のかけ持ちと転籍⑥

「役職・身分のかけ持ちと転籍」第6回目です。
総督とか都督とか言う肩書は元来司令官を意味する役職でして、文官、武官の色分けで言うのならば武官と言う事になりますが、しかし台湾総督の地位は元々軍人が任命されていたからと言って、必ずしも役職としては武官とは言えないでしょう。最初はその中に台湾軍司令官としての権限が含まれていたから、軍人しか任命できなかったのに過ぎないのであって、その権限を総督から排除してしまう事で文民を総督として任命できるようになってしまえば、晴れて名実ともに文官として位置づけられる事となりました。
さらに、付け加えるのであれば、宮中席次を見ればはっきりするでしょう。軍人の場合は、階級によってランク付けされているのに対して、文民の場合は軍人のような細かい階級制度が存在しないために、もっぱら役職によってランク付けするしかありません。よって文官であれば、宮中席次の中に役職名が存在しています。それに対して軍人限定の役職、ここではそれをあえて武官と称する事にしていますが、親補職と呼ばれる物、ひとくくり状態で存在しているのに過ぎませんでした。
一例を上げれば、陸海軍の大将は10番目、中将は19番目で、中将で親補職に任命されている者は15番目、台湾総督はその他の親任官の範疇で11番目。朝鮮総督は6番目であります。親補職も台湾総督も大将よりは低い設定となっているので、大将で任命された場合は、より高い大将での10番目が優先されています。
さて、朝鮮総督の方は最後まで陸海軍の大将しか任命されなかったのですが、宮中席次において6番目に設定されている事からも分かるように、役職としては文官の範疇に入っています。
さて、昭和11年、元連合艦隊司令長官である小林躋造が台湾総督に就任する事となりましたが、当然役職としては依然として台湾総督は文官である事には変わりはなく、ましてや台湾軍司令官の権限が与えられ事はなく、その権限は文民の総督と変わる事はありませんでした。
こうした事態が旧来の状態に戻すのであれば、別にそうすべきだと言う訳ではないのですが、台湾軍司令官に総督職を兼務させるしかありません。戦争末期の昭和19年に、台湾軍改め第10方面軍司令官である安藤利吉が台湾総督を兼務する事で、その状態が成立し、その状態で終戦を迎える事となりました。

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役職・身分のかけ持ちと転籍⑤

「役職・身分のかけ持ちと転籍」の第5回目です。
前回取り上げた児玉源太郎の役職のかけ持ちに関して、制度的には参謀次長と大臣とは無理でしょうが、それを度外視した場合、共に東京での勤務ですからそれ自体は不可能とは言えないでしょう。むしろ台湾総督との掛け持ちの方が実際として無理と言うべきではないでしょうか。にもかかわらず、児玉は台湾総督在任中に、内務大臣と文部大臣の短期間の兼務を含めて、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣、参謀次長と歴任して行きました。
さて、日露戦争においては、最初、東京の大本営が直接満州の軍司令部を指揮する思惑だった物の、現地で指揮を執った方が好ましいと言う事から、満州軍総司令部が編成され、参謀総長の大山巌が総司令官に就任し、総参謀長として、児玉が参謀次長のまま兼務と言う事で満州へ出向きました。
さてここで気になる事は、この期に及んで依然として児玉の正式の人事の中において台湾総督が有効であった事です。日露戦争前においてすら、東京において諸所の役職にあって到底台湾総督としての役割が果たせるとは思えず、その実態は民政長官である後藤新平任せの度合いが高く、それくらいならば、後藤が総督であれば良いとも言えるのですが、いかんせん台湾総督の権限の中に台湾軍司令官が含まれている状態では、文民の後藤が総督になる事は出来ず、名義貸しのようなありさまだとしても、総督には軍人が就くしかなく、日露戦争中においてすら児玉は総督在任状態だったのです。
後に正式に出来上がる台湾軍ですが、その時においてすら、朝鮮のように師団が存在していた訳ではなく、歩兵2個連隊が守備隊の中核でして、それも明治40年に出来上がった物でして、日露戦争中にあってはろくな守備隊が存在していなかったと言う事になります。そんなありさまだから、児玉のかけ持ちを廃止してまで別途台湾総督を任命する必要もなかったのでしょう。日本全体として余裕がなかったのです。
日露戦争が終わってしばらく、軍人の総督が続きましたが、大正に入って文民の総督任命が可能になるよう、明石元二郎が総督として在任中に正式に台湾軍司令官の役職が設定されて、明石の兼務となりました。そして、明石が在任中に死亡すると、以降、文民の台湾総督と、軍人の台湾軍司令官が別途に任命されるようになって行きました。

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役職・身分のかけ持ちと転籍④

「役職・身分のかけ持ちと転籍」の第4回目です。
前回取り上げた有栖川宮熾仁親王は西南戦争の時には鹿児島県逆徒征討総督、そして日清戦争の時には参謀総長に就任しました。もっともいくさの半ばにおいて病没してしまったために、その後任として同じ宮様である小松宮彰仁親王が就任しましたが、参謀総長在任のまま、征清大総督を兼務する事となりました。
それは元来大本営直轄となっていた第1軍と第2軍を現場において統括する、日露戦争で言うならば満州軍総司令官のような役職だと言って良いでしょう。
さて、西南戦争より先に牡丹社事件なる、台湾へ流れついた琉球の人が殺害された事で始まる事件において台湾出兵が必要となりましたが、その時に西郷隆盛の弟である西郷従道が台湾蛮地事務都督に任命されました。
ここまで行くと、総督とか都督と言う言葉は司令官を意味しており、それ自体は役職として武官であると言う事が言えましょう。ついでを言うならば、ここでは幕僚としての役割を持っている参軍と言う役職も存在しており、西郷に同道した軍人である谷干城と赤松則良がこの役職に任命されています。一方文官として台湾蕃地事務局長官に大隈重信が任命されていました。
日清戦争の勝利によって台湾の領有がなりましたが、日本支配を快く思わない現地の抵抗運動のために、それ自体にも日清戦争と別個に乙未戦争なるいくさが必要になってしまいました。
台湾を統治する台湾総督には台湾軍の指揮権が建前では認められていた物の、どうも海軍軍人(最初の総督は海軍大将樺山資紀)には陸軍部隊に対する指揮権を持たす事には具合が悪かったのか、そのいくさのために特別に副総督の役職が用意されて陸軍中将である高島鞆之助が任命されました。この後、台湾総督はしばらく陸軍軍人が任命される事となりまして、副総督の役職が必要となる事はありませんでした。 
初期の台湾総督には台湾軍司令官としての権限が含まれていました。それは広い意味でのかけ持ちでありますが、共に台湾での事ですからかけ持ちにする意味もあるのでしょうが、児玉源太郎が総督になった時に、在任中に陸軍大臣、内務大臣、文部大臣、参謀次長を兼務すると言う事をやっていました。当然それは台湾総督としての役割に不都合を生じる話でありました。

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