FC2ブログ

プロフィール

DUCE

Author:DUCE
趣味:緑地や山のほうへのハイキング
映画、ドラマ:戦争映画や時代劇が中心。アイドルやトレンディドラマの類は興味なし
外国関連:中国、韓国、北朝鮮と言った反日三馬鹿国は嫌いです。

竹島はわれらが領地なり

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

キター!

キター

plugin by F.B

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

君主の出撃30

「君主の出撃」第30回目です。
大日本帝国では、天皇は陸海軍を統帥す、とあるように最高司令官としての権限が定まっていました。そんな有様だから、よそのくにでも、イギリスのように既に議会民主制が確立しているような国はともかく、それ以外の、より民主的な度合いが低い国であれば、軒並み君主が最高司令官としての権限を有しているかと思いきや、必ずしもそうではないと言う事であります。
現に、第一次世界大戦時におけるロシアとオーストリアなどはそれが当てはまっていました。
ロシアでは最初皇帝ニコライ二世自身が最高司令官に就きたがっていたのが、側近の大臣たちに制止されたと言う事でした。つまり、そこでは、ロシアではあらかじめ皇帝が最高司令官としての権限を有していると定めていなかったと言う事なのです。
さて、それでは代わりに最高司令官として就任したのは、ニコライ二世から見て、従叔父にあたるニコライ大公でした。もっとも、それも1年と続く事がなく、翌年の3月には、ニコライ大公は罷免されて、ニコライ二世がその後釜に座り、首都ペトログラードを後にして、大本営への「出撃」となりました。
その大本営となっていたのがエストニアに近いプスコフでして、1917年の二月革命が成立すると、この地においてニコライ二世は退位を強いられました。
一方、その主要な敵たるオーストリア・ハプスブルク帝国においては皇帝フランツ・ヨーゼフ一世が1848年革命以来、60年以上の長期在位状態でして、よしんば大本営をウィーンにとどめておくと言う前提があったとしても、80過ぎのご老体と言う事を思えば、自ら最高司令官の地位を勤めさせると言うのは酷と言う物でして、別の者に最高司令官として任命すると言うのも、ある意味仕方のない物と言えましょう。
そうして任命されたのが、ナポレオン戦争時にオーストリア軍の最高司令官として従軍したカール大公の孫であるフリードリヒでした。フリードリヒの場合は、ニコライ大公同様、そうした地位は形式的な度合いが大きく、実際のいくさを指導したのは、参謀総長であったコンラート・フォン・ヘッツェンドルフでした。


長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^


クリックお願いします。<(_ _)>

クリックをよろしくお願いしますです。(人∀・)タノム



韓国(海外生活・情報) ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ 


人気サイトランキングへ



















スポンサーサイト



役職・身分の掛け持ちと転籍90

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第90回目です。
ドイツ第二帝国においては、統一がなっても、諸領邦が有している既存の外交権が維持されると言う事でした。その事は、プロイセンにおいても例外なしと言う事であります。それはよしんば統一がなっても、それを完璧な統一国家とするよりは、国家連合的な要素を多分に残した物だと言う事を示す物でありました。
とは言え、それでも依然として不可解な面がないとも言えません。何しろプロイセン外務省の存在を維持したまま、帝国外務省が立ち上がったのです。いっその事参謀本部並みに、プロイセン外務省が帝国外務省の機能を兼ねてしまえば、その方が理解もしやすかったでしょう。何しろビスマルク自身がプロイセン外務大臣でもあるのです。そのような状態で別個に帝国外務省を立ち上げても、結局の所、彼によって牛耳られるしかなかったのです。
20年以上前に購入した、山川出版社のドイツ史第2巻と第3巻ですが、ビスマルク時代には帝国外務長官とプロイセン外務大臣に誰が就いているかと言う記載がなかった一方で、ヴィルヘルム時代の始まるたるカプリ―ヴィの時には、帝国外務長官としてアドルフ・マルシャルが就き、プロイセン外務大臣としてカプリ―ヴィの兼務だったと記載がありました。
改めて、ビスマルク時代においてはビスマルクが外交の主導権を握っていて、別に誰が帝国外務長官であったかなどは大して重要ではなかったと言う事を裏書きする事だったのです。しかも別段、この時代、ビスマルクが帝国外務長官を兼ねていたと言う訳でもありませんでした。
帝国外務長官のポストが設定されたのは、1870年、まだ北ドイツ連邦の頃に、ヘルマン・フォン・ティーレなるプロイセン外務省の人間が任命されたのが始まりでして、それから20年間、最後にはヘルベルト・フォン・ビスマルク(ビスマルクの息子)まで都合9人が任命されていました。
結局それは、ビスマルクのパシリか代理人程度の意味合いしか持っておらず、ある意味では依然としてプロイセン外務省の存在が重要視されていた時代だったと言う事が言えるでしょう。それならば、帝国外務省の存在価値って何なのでしょうかと言う疑問が尽きないのです。帝国を代表するプロイセンが、よしんばそれが当たり障りのない物だとしても帝国と別個の外交などできるはずもないし、必要もないのではなかったではないでしょうか。


長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^


クリックお願いします。<(_ _)>

クリックをよろしくお願いしますです。(人∀・)タノム



韓国(海外生活・情報) ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ 


人気サイトランキングへ



















君主の出撃29

「君主の出撃」第29回目です。
ナポレオン三世が移動したシャロンには、エルザスから退却してきたマクマオン軍や第7軍団が合流し、それらの軍が再編成されて、シャロン軍となり、司令官としてマクマオンが任命されました。マクマオンは、メッツに陣取るバゼーヌ軍との合流を目指しつつ、プロイセン軍を側面から攻撃しようとランスを経由して、ミューズ川への進出を果たしたものの、プロイセン側は第1軍と第2軍でメッツのバゼーヌ軍を包囲する一方で、第3軍とマース軍を以て、シャロン軍を迎撃する事となり、一旦はナンシーへ進出した第3軍とマース軍を北方へ転進させ、9月1日のセダンでの戦いに突入します。
この戦いでシャロン軍は包囲され、包囲突破の戦いへと進展しましたが、翌日までにそうした戦いは見込みのない物となって行き、ナポレオン三世も降伏を認め、捕虜となりました。
これに伴いシャロン軍は完全に捕虜になり、また、バゼーヌ軍もメッツで包囲されており、もはやフランス側に継戦能力がない物と見られ、この直後、パリではクーデターが成立し、フランス第二帝国は終焉を迎えました。こうしたクーデターも、ドイツ側としてはフランスの側から遠からず講和を申し出る物だと見られていたのですが、意外とフランス新政府は徹底抗戦の姿勢を取りました。
プロイセン軍はパリへ進撃し、包囲を開始し、それは4か月以上もの長い物となりました。そして大本営も、ヴェルサイユへ進出しました。
その包囲の戦いが完結しない間に、いまだ北ドイツ連邦に加わっていない南ドイツ諸邦もそれに加わる事に同意し、1871年1月1日に北ドイツ連邦はドイツ帝国へと拡大発展し、連邦主席であったヴィルヘルム一世は、歴代のプロイセン国王の戴冠日に合わせて、18日に皇帝即位と相成りました。
帝国に属する諸侯も必ずしも全ての者が本人ないし一門の者をいくさでは参加させていなかった物の、ヴィルヘルム一世の皇帝即位の式典には、こぞって本人ないしは代理の者を「出撃」させました。もっとも、だからと言って、全ての者が、それを嬉々として受け入れたとは言えませんでしたが。実際、バイエルン代表として参加した国王の弟オットーなどは、その式典に関して否定的な内容を兄ルートヴィヒ二世に書き送った物でした。


長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^


クリックお願いします。<(_ _)>

クリックをよろしくお願いしますです。(人∀・)タノム



韓国(海外生活・情報) ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ 


人気サイトランキングへ

















役職・身分の掛け持ちと転籍89

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第89回目です。
ビスマルクの後任として、帝国宰相に就任したカプリ―ヴィは、前任者同様プロイセン総理大臣も兼ねていました。もっとも、それ自体は2年後に仔細があって、プロイセン総理大臣の地位はボート・ツー・オイレンブルクがプロイセン内務大臣との抱き合わせで引き継ぐ事となりました。
しかし、権限の分割も長続きせず、1894年、両者は解任されました。さて、その後任を決めるのは皇帝兼プロイセン国王たるヴィルヘルム二世と言う事でありますが、祖父と違ってプロイセン意識と言う物を持たないでいた物だから、皇帝でさえあればプロイセン国王でもあると言う事に関しては、大して意識を意識を持っていませんでした。彼にしてみればプロイセンも所詮は帝国の一部でしかないと言う事なのでしょう。
そんな意識を持った人間によって新たに帝国宰相に任命されたのが、クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ・シリングスフュルストなるバイエルンの侯爵でした。帝国の中におけるプロイセンのウェイトからすれば、格別プロイセン意識がなくても、高い確率でプロイセン人が帝国宰相に就くはずでしたが、このような人事がなされると言う事は、いよいよヴィルヘルム二世の意識がプロイセンから遠ざかって行っていると言う事を示していると言えましょう。帝国の中では「外様」と言って良いホーエンローエは、プロイセンからすれば「外国人」であるのにもかかわらず、プロイセン総理大臣を兼ねる事となりました。
そして、1900年からは新たな帝国宰相としてベルンハルト・フォン・ビューローが就く事となりましたが、ここで一旦「外務大臣」に話をそらしてみましょう。ビューロー自身は父親から2代続けての外交官だったからであります。
1862年、ビスマルクがプロイセン総理大臣に就任した時、抱き合わせで外務大臣にも就きました。9年後のドイツ帝国の成立によって、本来ならば、そうしたプロイセン外務大臣の地位は用済みか、あるいは帝国外務長官へと発展解消したのかと思われたのですが、帝国成立後にも、諸領邦がそれまで持っていた外交権は維持される事が認められていました。つまり、既存の外務省も、外国に配置された大使館も従前通り維持して良しと言う事なのでした。
まあ、そんな状態で、諸領邦の外交と言う物が、諸外国からどのように見られていたかは定かではありません。せいぜいの所が姉妹都市のような当たり障りのない物だったのではないでしょうか。


長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^


クリックお願いします。<(_ _)>

クリックをよろしくお願いしますです。(人∀・)タノム



韓国(海外生活・情報) ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ 


人気サイトランキングへ

















君主の出撃28

「君主の出撃」第28回目です。
フリードリヒ・カールが司令官を勤める第2軍には、ザクセン軍たる第12軍団が含まれており、さらに王太子フリードリヒ・ヴィルヘルムが司令官である第3軍には北ドイツ連邦に属していない南ドイツの3国の軍隊が加わり、その状態で普仏戦争が始まりました。
相対するフランスの方は、皇帝ナポレオン三世が直々の出撃をする事から、軍隊自体もそれに合わせて再編成され、その中心としてライン軍ができ、ナポレオン三世自身がその司令官として就任し、元来陸軍大臣であった。ル・ブールが、その参謀長として同道しました。
この辺の所は、プロイセンは軍事大臣であるローンを大本営に同道されていたとは言え、それとは別に参謀総長たるモルトケが存在した事とは意味合いが違っています。果たして、はなから双方の君主が出撃したと言う事です。まさしく普仏戦争こそが、双方の君主が出撃した戦った最後のいくさと言えましょう。
最初の戦いは、8月始め、ザールブリュッケンにおいて、プロイセン軍の主力が到着しない間に行われ、兵力劣勢ゆえにプロイセン軍の撤退で終わったものの、この後、プロイセン軍の兵力の集中が進行して行くと、ヴィサンブール、スピシャラン、フシュヴィレール=ワシュ、マーズ=ラ=トゥール、サン=プリヴァと連敗して、戦線はミューズ側にまで移動する事となり、プロイセン軍は軍の再編成を行い、マース軍が新設されました。
その司令官として、それまで第12軍団長であった、ザクセン王太子アルルベルトが就任し、後任の軍団長として、弟のゲオルクが就任し、マース軍の所属として配置替えとなりました。また、最初は近衛軍団の指揮下であった、メクレンブルク・シュヴェーリン大公の弟ヴィルヘルムが師団長であった第6騎兵師団もまた配置替えとなって、今度は第12軍団の指揮下で戦う事となりました。
これより先に、フランス軍はこれまでの連敗からやる気を失ったのか、ナポレオン三世はライン軍司令官の地位をバゼーヌに任せて、一旦はパリに戻ろうと思い立ったものの、皇后ウジェニーに反対され、しかもメッツに陣取るパゼーヌと合流する事も出来ず、シャロンへ移動する事となりました。


長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^


クリックお願いします。<(_ _)>

クリックをよろしくお願いしますです。(人∀・)タノム



韓国(海外生活・情報) ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ 


人気サイトランキングへ
















| ホーム |


 BLOG TOP  » NEXT PAGE