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竹島はわれらが領地なり

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役職・身分のかけ持ちと転籍⑳

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第20回目です。
アレクセーエフは海軍軍人でしたから、艦隊司令長官である事自体は別段問題ではないのですが、長官でありながら、地上部隊の司令官との兼務と言う事が違和感を抱かせるのです。日本に比べてよその国での話ですから、陸軍軍人でなくても、地上部隊、それも陸軍部隊の司令官となる事に関しては、まあ時たまある事だろうと割り切れる物です。また、ロシアにとっては関東州にある旅順は不凍港ゆえに珍重される物だから、海軍地上部隊が守備をすると言う事もあるのでしょう。
しかし、双方の役職は必ずしも両立する物とは言えない物です。地上部隊の司令官は地上にあって役目に付く物だし、艦隊司令長官ともなれば往々にして旗艦と言う物があって、その中で艦隊の指揮を執る物ではないでしょうか。太平洋艦隊が旅順に停泊している間ならばいざ知らず、出撃ともなれば地上部隊の司令官としての役目は一時的にも果たせなくなる事が懸念されるのではないでしょうか。
後の帝国海軍の方面艦隊であれば、艦隊と銘を打っても海軍の地上部隊が便宜上艦隊と言うだけの事であって、地上に司令部を置くのは当然と言えたのですが、ロシア太平洋艦隊は戦艦も含んだ本来の意味での艦隊に他ならず、常に司令部を地上に留めておく事などできるはずもありません。
この点、ガダルカナルの戦いの頃の第8艦隊は、必ずしも決戦用の艦隊とは言えず、南太平洋のいろんな所に地上部隊を置いて、警備やより南への地上部隊の進撃を行うための艦隊ではありましたが、それでも最初は5隻の重巡と言う、それなりの戦力を有している艦隊でもありました。そのために普段はラバウルに司令部を上げていましたが、第1次ソロモン開戦時には旗艦として定められていた「鳥海」に乗って出撃した物です。
その際、ラバウルの守りは第8根拠地隊がありまして、別段第8艦隊司令部が基本的にラバウルにいなくてはいけないと言う事はなかったのです。
実際にはアレクセーエフが艦隊を率いて出撃と言うような事態はなく、在任中は義和団の乱鎮圧を通じて、陸のいくさに参加すると言う関東州守備隊司令官としての役目においての出撃があったのみで、その過程で満州全土の占領を果たしました。かように地上での権限が大きくなった事で、彼は極東総督に任命される事となりました。

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役職・身分のかけ持ちと転籍⑲

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第19回目です。
榎本武揚が帝国海軍初の中将に任命された訳ですが、だからと言って別段江戸時代での経歴が重視された訳ではありませんでした。江戸時代においては榎本は海軍副総裁に就任し、その職権に基づいて西軍相手のいくさを有利に持ち込もうと画策していました。西軍が箱根に差し掛かった時、幕府海軍を駿河湾に進出させて、背後の補給路を断ち切ろうと言う事を画策していたのです。
その後、北海道へ逃れて独自の国家を組織して函館戦争を戦った後、しばらく監獄に留置され、釈放された時に新政府にあてがわれた最初の役職は北海道開拓使の職員でした。それは紛れもない文官でして、海軍軍人への任命はその後の事でした。その後の事は、ロシアとの領地問題を解決すべく、明治7年に駐露特命全権公使への任命と並行しての物でした。
当時としては、軍人を公使にした方が有利だと見られる慣例がありました。我が国でも知られていた事として、幕末において我が国と条約を締結しようとアメリカからペリー、ロシアからプチャーチンと言う海軍軍人が来日した物です。
彼らからすれば日本相手に条約を締結しよう物ならば船に乗って遠路はるばるやってこなくてはならないと言う事情があった物だから、それならば海軍軍人にその役目をあてがうと言うのは理にかなった物があるのです。いざとなれば、乗って来た軍艦に搭載してある大砲に物を言わせると言う事も可能なのです。実際、日本ではそこまで必要になる事はありませんでしたが、海軍軍人による外交ではそう言う事が可能だったと言う事を示しておきましょう。
もっとも榎本の場合は別段軍艦に乗ってと言う訳ではなかったし、ロシアが相手では、と言うか当時の日本の場合はどの国相手でもそのような、俗に言われる砲艦外交など行う余裕などなかった訳ですがね。
さて、その相手たるロシアは当時でも超大国でしたから、日本なんぞは物の数ではないと言う意識が強く、そうした傾向が日露戦争へも持ち込まれた物です。その過程で海軍軍人であるエヴゲーニイ・アレクセーエフなる人物の存在が際立ってきました。
日清戦争後に我が国が獲得した関東州は三国干渉によって放棄された後、ロシアにわたる訳ですが、その守備隊の司令官としてアレクセーエフが太平洋艦隊司令長官との兼務によって就任しました。

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ナバロンの要塞に見る要塞論⑪

「ナバロンの要塞に見る要塞論」第11回目です。
その要塞が直接役に立たなかったとしても、平時に築く分には、それなりに意味があったと言えましょう。たとえはフランスのマジノ要塞にしても、迂回されてしまった事で直接的には役立たずと言う指摘がなされる訳ですが、それでも曲がりなりにもドイツからすれば直接フランスから侵入しようとは思い寄らず、前大戦同様のベルギー、ルクセンブルクを経由、そして前大戦では中立国であったオランダをも経由しての侵攻となりました。そう言う意味では、元来の意図では効果があったと言う事が言えるでしょう。
それに対して戦時中に築く場合は、戦局の推移によって、最初に思い立った意図が完成時には置いてきぼりになってしまう可能性が手で来る物でして、思い立った時には必要に見えても、完成時までのタイムラグによって役立たずになる可能性が出て来るし、また、逆に今は必要がなくとも、後になったら、そうした要塞があるべきだったと思えるような事もまたしかりと言う事が言えるのです。
我が国なんかでも、本土決戦のために各所に要塞が必要だと思えるような事態があった物の、それは最初の思惑に大外れで敗北が深刻化してからの話でして、今から築いて置けば十分間に合ったと言う風にしようにも、その時に「今」はいくさが有利に進行していて、本土決戦などあり得ない不必要な代物だと言う事で、当然しかとされるべき物でした。いくさが有利に進行している時期であれば、限られた資源や時間は本土の守りよりも、前線の方にこそ優先して提供されるべきだったのです。
第二次世界大戦におけるドイツ軍がフランスやノルウェーの沿岸の各所に要塞を築いたのも、本来ならば不要な物だったでしょう。イギリス相手のいくさが思った通りに進んでくれれば、そんな物は必要ないと言う事なのです。1940年のイギリス本土航空戦によって制空権を確保する事が出来ずに本土進攻を断念しなくてはならなくなることによって、逆にイギリスからの侵攻に対する備えが必要になって大西洋要塞が必要になってしまったのです。
対英戦争が最初の思惑通りに進んでくれれば、潜水艦作戦も必要なかった訳でして、その後潜水艦作戦が大々的に拡大して行ったのも、そのせいでして、そのための要塞としてロリアンなどビスケー湾の潜水艦基地に潜水艦を空襲から守るためのブンカーと呼ばれる代物が出来上がったのでした。

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役職・身分のかけ持ちと転籍⑱

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第18回目です。
明治維新直後の段階にあっては軍政と軍令も陸軍と海軍と言う概念も未分離の状態から始まりました。初期は軍事の万事は兵務省の元で一元化されていましたが、それが陸軍省と海軍省へと分離して行きました。
前回は帝国海軍の規模のしょぼさと言う物を指摘した物ですが、関ケ原合戦と戊辰戦争とを比較すれば陸海軍全体がしょぼいと言える状態でして、前回も指摘したように陸軍だって西南戦争時点では陸軍ですら大将は西郷隆盛だけと言う状態でした。近代軍としての階級制度が制定された直後は中将が最高階級でして、明治6年になって大将が制定され、西郷隆盛が任命されました。
海軍の方は日清戦争の頃まで大将が存在せず、しばらくは制度としてはあっても、規模のしょぼさから事実上中将を最高階級として存在していて、その最初として榎本武揚が任命されました。そしてそれに続いて川村純義が任命されて、この川村の元で西南戦争が起こりました。
後の海軍大将たる西郷従道や樺山資紀も陸軍軍人の状態で西南戦争に従軍していた訳でして、それに比べれば榎本や川村の場合ははなから海軍だと言う事が言える訳ですが、広い意味では彼らとても、転籍だと言う事が言えるでしょう。初期の人間は万事武家社会の武士が近代社会の文官や軍人へ転籍したと言えるのではないでしょうか。
さて、そうした武士からの転身と言う事は別としても、彼らはなからの海軍軍人はある意味不遇だったと言えるでしょう。榎本や川村と言った彼らこそ、はなから海軍にいた以上は、彼らこそより初めに海軍大将になるべきだと思えるのですが、既に述べたように最初に海軍大将になったのは西郷従道、樺山資紀でして、榎本の場合は大将に昇進する事なく、生涯を終えたし、川村にしても、榎本同様早々海軍から放逐されて、日露戦争中にようやく死後昇進と言う形で海軍大将になったのでした。
さて、後の時代には海軍省には海軍軍人が任命されると言うのが当然となりましたが、初期の段階にあっては海軍軍人が不足して、陸軍からの転籍と言う事があったように、そうした海軍の役職が陸軍軍人によって担われると言う事がありました。ごく初期には海軍大臣は海軍卿と呼ばれ、次官は海軍大輔と呼ばれていましたが、その海軍大輔にはまだ陸軍軍人であった樺山が就き、海軍卿が海軍大臣と改称された直後には西郷が就きました。こうした事が縁となって、両名は海軍への転籍となったのです。

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ナバロンの要塞に見る要塞論⑩

「ナバロンの要塞に見る要塞論」第10回目です。
大東亜戦争の半ばにある意味にぎわせた言葉として存在している「ラバウル航空隊」は、歌の中にも取り上げられた存在でありますが、結果としてはそれは良い事ではありません。
「ラバウル航空隊」を構成した第11航空艦隊は、開戦時、大半が台湾に、一部がインドシナにあって開戦直後の作戦においてフィリピンのアメリカ航空隊とイギリス東洋艦隊を撃滅すると言う輝かしい戦果を収めた後、迅速な南方作戦の進展に伴い、占領地に確保した新たな基地に進出してしまい、既存の基地はたちまち後方の物として取り残される事となりました。そして台湾の基地が再び大々的に前線の基地として利用されるようになるのは、マリアナ諸島失陥の後の事でした。
さて、海軍航空隊の花形としてはどちらかと言えば最初は空母機動部隊の方でして、それは何と言っても真珠湾攻撃をやり遂げた事にもあります。帝国海軍が久しく最有力の敵として迎撃の対象としていたアメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えたと言う事実に比べれば、基地航空隊の戦いは地味に見られる物であります。
そんな比較的注目度の劣る基地航空隊がにわかに注目を浴びるようになったのは、ミッドウェー海戦によって敗北した事に起因します。空母機動部隊の戦力を推し量る物は必然的に空母でして、それを失う事によって著しく規模が減少した事によって、相対的に基地航空隊にも重点が置かれるようになって行ったのです。
それでも、その後迅速な進撃ができたならば、既存の基地は台湾のようにすぐに後方に取り残されるはずでしょうが、実際は我が軍の劣勢のために既存の基地たるラバウルにが足るカナルの戦いが始まってから1年半踏みとどまる結果となり、却って有名になってしまったと言う皮肉な結果となった物です。
台湾の場合は、はなから我が国の領地であると言う所から始まっていた物だから、戦前から航空基地の念入りの充実は当然あってしかるべきだったでしょうが、それに対してラバウルの場合は所詮は元々よその国の領地であったのに過ぎないのであって、そうした所を一大航空基地としてしまった事は功罪半ばする所なのではないでしょうか。
そしてそれは今回のテーマとなっている要塞にも当てはまる事なのです。当時の我が軍における飛行場の造成ですら相当な苦労があった物です。ましてや俗に言われる要塞に至ってはそう言う事に関しては推して知るべき所なのです。

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