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映画、ドラマ:戦争映画や時代劇が中心。アイドルやトレンディドラマの類は興味なし
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竹島はわれらが領地なり

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絶倫ロボに見る男女の性差39

「絶倫ロボに見る男女の性差」第39回目です。
関ケ原合戦では、日本全体が東軍西軍と言う2派に分裂した状態にありまして、敗者たる西軍に属した大名の多くが改易ないし減封を強いられて、そうした領地は東軍に属した大名に与えられたり、天領へとなって行きました。そしてそれは同時に多くの浪人を生む事となりました。
浪人の再仕官先として、知行アップになった別の大名が望まれる訳ですが、あてになるのは著しく知行アップになった結城秀康のような存在くらいでして、2倍程度の知行アップでも十分に部屋住みであった者によってまかなえたのではないでしょうか。
この後も、幕府が定めた諸所の法令に反した大名が改易になる事で浪人が輩出される事になるのですが、その一方で、改易になった領地がよその大名に与えられる事によってある種の部屋住み対策となった事が指摘できるのではないでしょうか。別段いくさがあって新たな領地獲得ができない割には、ずっと後になってもどこかの大名家の部屋住みの者が若干ながらも領地をもらって、形式的ででも大名となれたケースが少なくないのです。それが可能になったのも、既存の一部の藩の改易による物でして、そう考えると、決して浪人対策と部屋住み対策とは両立し得ない事が改めて指摘できる次第であります。
当然の事ながら、そうした元来部屋住みの者が大名になる事は分家の創出と言う事に他ならない訳でして、それだけにそうした藩は必ずも恒久的に存在させなくてはならない物だと言う事にはなりません。幕府にしても、その部屋住みを部屋住みの状態から解放してやる事にこそ重視していた訳でして、無理にでもその支藩を永続させることを求めていた訳ではありませんでした。
現に本家の方で自前の後継ぎを提供できない時には、そうした支藩の藩主を後継ぎとして認める代わりに支藩自体は「たたんで」しまう事もやっていました。一例をあげれば、徳川吉宗や尾張宗春なども、最初は部屋住みの状態からささやかな領地をもらって形式的な大名であった経験があったのです。共に後に紀州藩、尾張藩を相続する事で、用済みになった元の領地は幕府へ返還する事となりました。
さて、このような形態を取る以上は、独自の大名家として家臣団を創出する事は、本家の規模からすれば容易だったでしょうが、あえてそう言う事はせずに、支藩の統治自体は本家任せで、両名は実質的には依然として部屋住み状態だったのでした。

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絶倫ロボに見る男女の性差38

「絶倫ロボに見る男女の性差」第38回目です。
職業世襲が当たり前な環境の下では、親の家業を相続すると言う事に他ならない訳ですが、どこぞの大名家に仕えているのであればいざ知らず、浪人になってしまえば、失業状態にある訳ですから、世襲もあった物でもないのですが、それ以下の産業身分と違って、武士とはそれに超越できる身分であるがために、それにこだわって、それを維持するためには別の藩に仕官すると言う発想が強いのです。よしんばよそに仕事を獲得して、それで生計を立てても、それはあくまでパートタイムのような物であって、所得の足しになるかと言う事は度外視して、武士と言う身分こそが「本業」と言う事になってしまっているのです。
しかし現実は、江戸時代は幕末に至るまで、大かれ小かれ改易と言う物が存在しているのにもかかわらず、それほど浪人が採用されると言うほどでもないのです。その本質は部屋住みと同様の事が言える訳でして、必然的に至難の業と言う事になってしまいます。
そうした部屋住みにしてみれば、主家が別途扶持を提供して、自分を別途藩士の列に加えてくれればと言う風に思わないでもないでしょうが、藩の側だって、江戸時代が進行して行く間に財政窮乏が目立つと言う事が往々でして、既存の藩士に与える扶持ですら削減される事だって往々だと言うのに、部屋住みの者を別途藩士に召し抱える余裕などなく、もしそれを可能とするとしたら、幕府の方で知行アップして欲しいと言う風に考えている事でしょう。
藩の方だって、家臣の家の部屋住みに対してなにがしかの便宜をあてがってやりたいと言う思いが全くなかったとは言えないまでも、先立つ物がない以上、自助努力任せにせざるを得ないでしょう。ましてや浪人の仕官希望など迷惑がる対象だと思われたのが真相でしょう。よそ者よりもまずは身内でして、よしんば浪人を召し抱える余裕があるのであれば、それに優先して、部屋住みの者こそ藩士に取り立てた事でしょう。
将軍家ですら、家斉の子女優先で、田安家の子女の縁組は後回しになったほどです。それ以下の者は持参金付きによって、ことによったら他家の実子相続を横取りする事も辞さぬなんてケースにも見られるように、誰もが赤の他人よりも身内優先で事に臨む以上は、どうしても浪人は後回しにならざるを得ないのです。

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絶倫ロボに見る男女の性差37

「絶倫ロボに見る男女の性差」第37回目です。
江戸時代における社会問題として浪人があります。これは部屋住みとある程度共通する部分がある社会問題であります。結論から言えばいずれも余り者だと言う事に他なりません。
浪人は現代社会で言うならば失業者と言う事になるのですが、現代社会と違って職業世襲の概念が強い時代の中での話ですから、若干意味合いが違ってきます。現代社会でならば、親の職業と無関係に子供が自ら職を獲得してと言う事が当然でして、その中では部屋住みと言っても、独自の収入があるのですが、職業世襲が当たり前な江戸時代にあっては、武士の場合は個人にではなく、家に対して給与が出ると言った方が良い状態でして、よしんば長男と言えども父親が現役の間は居候状態にあると言っても差し支えない状態にあったのです。
次男坊以下に至っては、推して知るべし状態でして、兄がいる間は親が死のうと、そうした居候状態から脱却する事はできません。そこで他家への養子と言う手段もありまして、中には持参金付きの養子縁組によって、ことによったらそこの家の実子相続が可能な状態を横取りすると言う事もあり得たのです。
さて、江戸時代においては多くの藩が後継ぎがいないとか、幕府の定めた法に反したと言ったと言う事で改易になり、そのたびに浪人が出た訳ですが、別段、その藩によって統治された土地までもが消滅する訳ではなく、大抵の場合はいったん天領になってから、既存の大名の知行アップや新設された大名家に与えられると言う事になって、理論上では、そうした大名家にとっては、新たな領地の統治や、知行高応分の幕府に対する奉公のために家臣を増やす必要が出て来る事になるのではないでしょうか。
となると、主家が改易になって浪人になった者に再就職のチャンスがそこに訪れると言う事があり得ると言う物なのですが、どうもドラマなんかを見てみると、それほど浪人が採用されると言う事がないように思えます。また、武士の方にも、既にどこかの藩に仕官している分には問題ないのでしょうが、浪人になってもなお、職業世襲のこだわりが残ってしまっている傾向が多いようです。いったん浪人になってしまえば、そこからの進路は自分で決められるはずですが、往々にして武士以外の選択肢は意識しないようですね。

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絶倫ロボに見る男女の性差36

「絶倫ロボに見る男女の性差」第36回目です。
現代社会でならば、親の職業と無関係に子供が独自に職を獲得すると言う事が当たり前になっていますが、職業の世襲が当たり前の時代にあっては、基本的に武士の家に生まれたならば、武士として生きなくてはならない物でして、生まれた家で世襲がかなえば良いでしょうが、次男以下として生まれた場合は長兄が世襲するのが当然で、それ以下はとりあえずはその下で部屋住みとならざるを得ない物でして、そうした所から、ドラマでは往々にして長兄の暗殺と言う事も生じてしまうのです。
まあ、それは極端な例として、実際には容易にそこまでは行かないにしても、親としてはわが子を部屋住みのままに留めておくことは不憫だし、あるいは迷惑だと言う事でもあります。そこで、どこかよその家で実子相続ができない家があれば、そうした所へ養子縁組と言う事ができるのですが、より確実に養子縁組を推し進めようものならば、実子相続が可能な家だろうともお構いなしで、その家の家督を横取りすると言う事も考慮に入れるべきでしょう。そうした手段を目指す手段として持参金付きの養子縁組と言う事が行われる訳ですが、そうした事が幕府によっても行われたと言う事であります。
それが前回取り上げた、養子先の藩に対する加増でありました。そもそも家斉の子供があまりにも多すぎたと言う事で、普通に養子縁組を目指そうにも、大抵の場合は実子相続が可能な家でして、本来ならば養子縁組など必要ない状態にある物だから、そうした所にごり押ししよう物ならば、そのような見返りを提供しなくてはならないでしょう。また、家斉の息子が藩主として送り込まれるのだから、少しでもましな状態にしておくべしと言う思惑も働いたのです。
ちなみに尾張藩では、7代目宗春が吉宗の倹約政策に反した事から隠居を強いられていたですが、それが死んでなお制裁が続いて、宗春は墓に入ってもなお「隠居」状態を強いられたのか、墓には金網がかぶせられる状態が75年も続いたのでした。
尾張藩では9代目の宗睦の死後、2代続いて将軍家ないし御三卿からの養子縁組が続いて今度も幕府が養子を送り込もうとして事で不満囂々であったのをなだめる事もあって、上記にあげた尾張藩に対する制裁を解く事となりました。

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絶倫ロボに見る男女の性差35

「絶倫ロボに見る男女の性差」第35回目です。
映画「十一人の侍」「十三人の刺客」と、いずれも、菅貫太郎が将軍家から養子として入って来た暴虐大名を演じていました。数多くある徳川家斉の息子の中には尾張藩や紀州藩の後継ぎになった者もいると言うのに、その2名たる松平斉厚、松平斉韶(なりつぐ)はそれぞれ舘林6万1000石、明石6万石と言う最低レベルの養子縁組でして、彼らならずとも不満囂々に充分なり得る条件だったと言えましょう。
厳密にはその下と言うのもありまして、津山藩が5万石で家斉の養子先としては一番知行が低かったところでありました。ただ、この津山藩は結城秀康の嫡流の家柄にあったのにもかかわらず、改易が連発して、津山藩として再三のスタートでした。その頃は10万石で、しかも後継ぎは将軍から偏諱に与れる家柄であったのが、(津山藩としての2代目たる)浅五郎の死後、末期養子をせざるを得ない事から一旦は改易かと思われたのが、5万石に減らされてかろうじて存続していました。ちなみに最初は末期養子は禁止されていて、改易の対象となっていたのですが、それだと改易になりやすい事から、家綱の頃から半知召し上げ程度で済ませる事になりました。
その結果、それ以降の藩主は偏諱に与る事なく、単なる小大名の1つとして低い家格に甘んじざるを得ず、それからの津山藩は10万石の禄高と旧来の家格への復活が宿願となっていました。
そうした津山藩との思惑と幕府との思惑が合致して、当時藩主であった松平康孝は実子がいるのにもかかわらず、家斉からの養子を受け入れて、5万石の加増と、親子で偏諱を受ける事となり、康孝自身は斉孝と改名しました。
さて、上記における松平斉厚、松平斉韶は史実においては別段暴虐大名ではなく、自身が将軍家からの養子と言う訳でもなく、養子を受け入れる側でありました。その中でも斉韶(元の名前は直韶)は実子がいるのにもかかわらず、家斉からの養子を受け入れる事で、こちらも親子で偏諱を受け、かつ、その養子たる斉宣(なりこと)が正式に藩主になると、2万石の加増がかないました。
一方の斉厚(元の名前は武厚)も家斉からの養子を受け入れて、親子で偏諱に与れたのですが、こちらの方は実子を差し置いてと言う事がなく、いずれにしても養子縁組が不可欠だったと言う不利な状態にあったのみならず、せっかく養子として受け入れた斉良も早死にで藩主に就任する事がなかったために、こちらの方は加増される事がなく、浜田への転封のみで知行アップがないままに幕末を迎えたのでした。

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