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竹島はわれらが領地なり

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役職・身分の掛け持ちと転籍68

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第68回目です。
明治維新初期に行われた廃藩置県は、単に旧来の藩を県に差し替えると言う物ではありません。そもそも江戸時代の地方行政の1つとして、大名や旗本個人に対する賞罰や人事異動によって、領地の加増や減封、転封、改易、あるいは部屋住みの者の新規取り立てなんて事が恒常化しており、そのたびにある地域の統治の制度が変更になってしまうと言う有様でした。それは現代で言う、知事や市長が後退すると言う程度の物ではありませんでした。
現代の場合は、知事や市長が交代して、その自治体における条例が廃止になって、ぺった新たな条例が制定されると言う事はないでしょう。江戸時代の場合、領主の交代の過程でそのような事は往々として存在していたのです。そして、あたかも給与の加減のごとき領地の加増や減封、転封、改易、すなわち領地の中で行われたのですが、その過程で飛び地もまた恒常的に存在していたのです。
その結果、幕府も大名もその多くが大かれ少かれ飛び地支配の苦労を強いられる事となり、幕府ですら、大岡忠相が奉行として着任した事のある、直轄地の1つである伊勢山田のように隣接する領主(ここでは紀州藩)とのあつれきに苦労すると言う事例が存在した物です。
こうした事態は、軍事的にも内政的にも好ましくない物でして、廃藩置県によって、旧来の藩を度外視した形で新たな道府県が出来上がった物です。そして、日清戦争の頃には、いまだ屯田兵の制度が残っている北海道は別として、それ以下の地域に関しては旧来の藩は言うに及ばず、新設された府県の境界線を度外視した形で6つの師管が設定されていて、それが地域の軍政の単位となって行きました。
それらにおける軍政の責任者は本来、それらの地域に衛戍する師団の指揮官たる師団長の権限とされていましたが、大東亜戦争においてあまりに多くの師団が編成されてしまい、常備の師団もほとんどが出撃と言う状態では、師団長の権限とする事は不都合でして、最終的には師管区司令官を別途に任命する事態となりました。
本来は、その時点で、その上には軍管区司令官が就く事になっていましたが、一部の師管区に関しては、それ自体が軍管区と言う所も存在しており、そうした所では師管区司令官自体が不要でして、軍管区司令官の中に「吸収」されてしまいました。


長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^

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トホホが由来の地名

日本には中国人が「笑ってしまう」、地名や駅名が結構あるぞ=中国メディア

日本の漢字は中国から伝来したものだが、時の経過とともに意味が変化したものも多い。そのため、旅行などで来日した中国人にとっては「面白い」と感じられるようだ。中国メディアの今日頭条は7日、日本には「中国人にとって面白く感じられる」地名や駅名があると紹介する記事を掲載した。

 記事が紹介した1つ目は千葉県にある「我孫子」市だ。名字でも「我孫子」は使用されるが、中国語では「私の孫」という意味で、相手を罵倒する言葉として使用される言葉であるために、聞くと衝撃を受けるようだ。

 また、鹿児島県にある「上床」バス停についても紹介。中国語では「寝る」あるいは「ベッド・イン」の意味になるので面白く感じるのだろう。北海道の「大麻駅」は、中国語でも「大麻」は「マリファナ」を指す言葉であるため、おかしく思うようだ。

 ほかにも、埼玉県にある「小手指(こてさし)駅」、「地名(じな)駅」、今は廃業になった静岡県の「小豆餅駅」、「冷蔵庫前」バス停、「大麻駅」、「放出(はなてん)駅」、「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」、最後は「聖母の騎士」バス停を紹介した。日本人にとっても珍名に感じるものも多いと言えるだろう。

 いずれも中国人には面白い地名のはずだが、反応を見ると「中国にはもっと面白い地名がある」と張り合うコメントが多く見られた。また、日本の漢字は中国から借用したので意味が変わっていて当然だが、漢字の発祥地である中国で変わったことを残念がる人、さらには日本には「中国の文化でいっぱい」であることを称賛し、各王朝の言葉が残っていると中国との違いを指摘する人もいた。漢字を今でも使用する日本は、中国人にとって親近感と好奇の対象になっているようだ。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)


なまじ意味なんか分からない方が「良い」と言う事もあるようですな。まあ、意味が分かったからかえってまずいと言う意味ではない訳でもないですがね。意味を突き止められる事によって、かようにいろんな解釈ができてしまう所が漢字によって出来上がってしまうと言う事です。
また、わが国では故事によっても地名が出来上がってしまう事があるようでして、ここで紹介されている小豆餅なんかも、三方ヶ原合戦における敗走途上の徳川家康のエピソードにちなんだものとされています。小豆餅のエビソートに関してはフィクションらしいようですが、そうなると、その近くには銭取と言う地名もありまして、こちらも同様にフィクションと言う事になりそうですね。
銭取の方は家康が小豆餅を食べた茶店の店主が、家康が金を払わないで逃亡したのを追っかけて、代金を取り立てた場所と言う所からのようですが、よしんばフィクションだとしても、家康にとっては浜松城に逃げ帰るまでに糞を漏らし、それを家臣に暴かれて、それをごまかす必要が出て来るほどのトホホなエビソートに連なる事がかくも地名に残ると言うのは実に面白い。

ビ(^▽^*)ビックリ!

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「海賊国家」

宗教改革と「海賊国家」 悲劇の島アイルランド その2

【まとめ】

・16世紀のイングランドは、名実ともに「海賊国家」だった。

・イングランドのカトリック対峙はアイルランドの悲劇的運命に拍車。

・イングランドは周辺国から信仰と経済活動の面で恨みを買った。

【注:この記事には複数の写真が含まれています。サイトによっては全て見ることができません。その場合はJapan In-depthのサイトhttps://japan-indepth.jp/?p=46077でお読み下さい。】

前回、イングランドにおいて国教会が成立し、ローマ法王庁と袂を分かったことから、アイルランドは宗教対立に飲み込まれて行くことになったと述べた。

もう少し具体的に述べると、国教会が成立したのは1534年のことで、それ以降、法王庁への忠誠すなわちカトリックの信仰を保ち続けたアイルランドは、イングランドの王家から目の敵にされるようになったのである。

もちろん、イングランドにはイングランドの事情というものがあった。この当時、ヨーロッパ大陸においてはスペインの勢力が台頭し、黄金時代と呼ばれていた。具体的には、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(1500〜1558)が、ヨーロッパ大陸のほぼ西半分と広大な植民地を領有し、その息子フェリペ2世(1556〜1598)はポルトガル王も兼ねてイベリア半島を統一したのである。

このフェリペ2世は、よくも悪くもカトリックの信仰に篤く、「異端者の上に君臨するくらいなら、命を100度失った方がましだ」との言葉まで残している。

もともと神聖ローマ帝国自体、中央で勃興したハプスブルク家が、法王庁の政治・軍事部門を勝手に買って出た、というべき存在で、フェリペ2世はカトリックによるヨーロッパ再統一を真剣に考えていたのだ。

このため。同じカトリックの新興を守るポルトガル人に対しては、まことに寛大な当地を実施した反面、法王庁に刃向かった「異端」のイングランドに対しては、「いつか叩きつぶしてやる」と言ってはばからなかった。

念のため述べておくと、信仰だけが両者の対立の原因であったとは見なしがたい。

スペインの黄金時代を支えていたのは、中南米の植民地からもたらされる豊富な銀や物産であったが、イングランドはと言えば、王家までが海賊に投資して(!)その交易船を盛んに襲わせていたのである。投資の見返りとして上納金を受け取ったわけだが、その額たるや、当時の国家予算に匹敵したという。

昨今、国際社会から白眼視され、経済制裁を受けている国が「瀬取り=会場密貿易」を続けているとして問題になっているが、16世紀のイングランドの行為は、それどころの騒ぎではない。事実スペインからは「海賊国家」と非難されていた。

もちろんここでも、イングランドにはイングランドの論理がある。スペインによる侵略の脅威にさらされている以上、その経済力に打撃を与え、海上輸送能力を削ぐことは、国防上きわめて有効な手段であった。

それゆえ16世紀イングランドの人々の目に映る「カリブの海賊」とは、冒険心と愛国心を兼ね備えた勇者たちだったのだ。

20世紀以降のハリウッド映画や日本の漫画にまで、こうした世界観が持ち込まれるとは、まさか思わなかったであろうけれども。

話を戻して、信仰の面からも、また経済的な思惑からもイングランドに対して堪忍袋の緒が切れたフェリペ2世は、1568年、無敵艦隊を差し向けて来た。

これを迎え撃ったイングランド王こそ、エリザベス1世女王である。彼女はなんと、海賊の親玉であったフランシス・ドレイクをイングランド艦隊の副官(事実上の司令官)に任じた。そのドレイクは、遊撃戦法で無敵艦隊を疲れさせ、最後は薪などの可燃物を満載した船に火を放って敵艦隊のまっただ中に突入させるという特攻作戦で、辛くも勝利を得た。

かくして、イングランドがやがて連合王国=英国となり、スペインに代わって「日の沈むことなき帝国」の座を得るに至る道が開かれるのだが、それはまだ先の話で、無敵艦隊を追い返したからと言って、スペインの脅威が消えたわけではなかった。

そしてこのことが、アイルランドの運命を一層悲劇的なものとする。

これまたイングランドの立場から見れば、スペインを中心とするカトリック勢力を正面と見て対峙した場合、カトリック国アイルランドは「背後の脅威」以外のなにものでもない。事実、前述の無敵艦隊は、まず北方に遁走した後、ブリテン島北部を迂回してスペインに逃げ帰ったが、一部は途中アイルランドに寄港して補給を受けていた。この間イングランド艦隊はと言えば、兵糧の準備が充分でなかったため、再度の出撃はできなかったのである。このためイングランドは、アイルランドを制圧すべく、派兵を繰り返し、1600年代からは世に言うアルスター植民を開始した。

アイルランド北部のアルスター地方に、主にスコットランドから多数の移民が送り込まれたのだ。前回述べた通り、アイルランドとスコットランドの住民はともに「島のケルト」すなわち民族的に同根で、文化的な結びつきも強かった。しかし、この時期にスコットランドから渡ってきた人々は、古来のゲール語をすっかり忘れて英語を母国語とし、プロテスタントの信仰を持つようになっていた。

さらには、彼らの言う「植民」とは、もともとアルスターで暮らしていたカトリックの住民を特定の居住区に押し込め、奪った土地に自分たちの生活圏を築く、というものであった。言い換えればカトリックの住民の立場は、新大陸における先住民、あるいはアフリカにおける黒人と同様のものとなったのである。

その後300年を経て、具体的には20世紀末の統計ということになるのだが、このアルスター地方においては、金融資本の100%、製造業の70%以上、サービス業の過半数がプロテスタントのもので、カトリックは下層労働者階級と同義語であった。

とどのつまり、スペインにおいてもアイルランドにおいても、イングランドは信仰と経済活動の両面から敵視され、恨みを買うに至ったのである。

繰り返し述べるが、イングランドにしてみれば、強大なカトリック勢力の脅威に対抗するため、という大義名分があったわけだが、いつの時代、どこの国でも、もっとも立場の弱い者が最大の被害者になるという構図だけは変わることがない。

しかしその構図も、永遠に変わらないというものではなかった。

追い詰められた弱者が武器を手にした時、歴史はまたも大きく動き、そしてさらなる悲劇が招かれるのである。


まずもって、自分はドイツ史中心で物を考える所かあるから、ここでも取り上げられていたカール五世と言う「表現」、自分もそのように意識する次第ですが、実の所は、当の本人にしてみれば、スペイン国王カルロス一世の方がメインでして、よしんば皇帝と言う、国王よりも高いランクの君主にあろうとも、神聖ローマ帝国皇帝なんぞはついででやったのに過ぎないのでして、意外とドイツとのかかわりが薄い人物でしたが、その一方でスペインとのかかわりが深く、この国王の御代の時に日本との接点が始まったのですな。

>20世紀以降のハリウッド映画や日本の漫画にまで、こうした世界観が持ち込まれるとは、まさか思わなかったであろうけれども。

古くはエロール・フリン主演の「海賊ブラッド」や「シー・ホーク」に見られるように、確かにカリブ海こそは海賊の舞台の代表的ななっていました。とりわけ、「シー・ホーク」などは、主人公直々に女王と対面して、そうした自身の海賊の任務におけるプランを披露するなんて事もありました。


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役職・身分の掛け持ちと転籍67

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第67回目です。
ただ今の所は、ドイツ第二帝国の軍備に入った所ですが、ちょっと帝国陸軍の話にそれてみます。
地域軍政の基本として、我が軍では師管区あるいは師管と言うのがありまして、常備師団は近衛師団は別として、それぞれ師管があてがわれて、その範囲における軍政や、戦時ならば軍直轄部隊として存在すべき旅団以下の部隊が、その師管の中に駐屯していた場合、それを指揮する権限、そして師管の中にある諸所の学校に対する軍事教練に関してはそれぞれの師団の権限となっていました。
それは後になって師管区司令官と言う役職が任命されたのですが、本来は師団長の権限に含まれていました。もちろん、その師団がなんかしらの事情で出動して、師管区から離れてしまう場合はそうした役割にかかわれなくなってしまうので、その場合は、留守師団が編成されて、新たに任命される留守師団長がそうした師管区司令官の権限を引き継ぐ事になります。
師団は本来天皇直属と言う立場から、そうした軍政その他の役目も本来は天皇直属の元で、陸軍省、参謀本部、教育総監部の指導の下に行われる事になっていたのですが、昭和に入って、それらの師管が4つの軍に振り分けられて、それらが後に軍管区として発展して行く土台となりました。
本土決戦ともなりますと、部隊の指揮と言う事も必要になって来る事から、その範囲はいろいろ変更が必要となって来ました。例えば、最初は東部軍管区には、仙台師管や金沢師管も含まれていたのですが、新たに設定された第12方面軍の範囲とは異なっていた事から、それに合わせて、よその方面軍に移される事となりました。そして、その上で、第12方面軍の範囲は同時に東部軍管区の範囲と言う風に定められて、双方の司令部の兼務化と言う風になりました。
おおむね、方面軍の範囲が軍管区の範囲と言う風に変更となって、それぞれの方面軍司令部が、範囲とする軍管区の司令部と言う風になったのですが、四国と中国に関しては別でして、第15方面軍の範囲に含まれていた物の、その中で別途編成された第59軍と第55軍がそれぞれ中国軍管区と四国軍管区の範囲となって、両軍司令部が範囲とする軍管区司令部を兼ねる事となり、その代わり、第15方面軍司令部は、その範囲を除いた部分を範囲とする中部軍管区司令部を兼ねる事となっていました。


長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^

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君主の出撃⑥

「君主の出撃」第6回目です。
第二次世界大戦では、もっぱらヒトラーだけが、首都を離れた形でいくさの指揮を執ると言うのが基本となってしまいました。当時としては、それ以外の国の国王も、大統領も、総理大臣もそこまでしていくさの指揮を執ると言う事はありませんでした。それが世界的な常識と言うべき物でしょう。まあ、首都が敵の進撃に脅かされて、そこに留まれないと言う状態になれば、その時になってやむなく、首都を離れると言う事態も生じる事でしょう。そんな状態は、本来まずは退避ありきの行動と言う事に他ならない訳ですか、さりとて、だからと言って、必ずしも、もっぱら退避だけに終始したとは限らず、戦ったと言うに値するエピソードもない訳ではありませんでした。
ベルギー国王レオポルド三世は、王太子時代に第一次世界大戦があり、一兵卒として従軍しました。1934年、父アルベール一世の崩御により、国王に即位し、第二次世界大戦では国王と言う、最高司令官としていくさに従事する事になります。元々は断固とした中立の発想でしたから、ドイツの脅威が迫って来た状態でも、ぎりぎりまで英仏軍の進駐は認めず、よしんばドイツ軍の侵攻があったならば、独自で国防を目指す意図でしたが、結局は1940年のドイツ軍の侵攻に対しては英仏軍との共同での戦いとなりました。
国境での戦いに敗れる事で、レオポルド三世はダンケルクに退避し、そこでいくさの指揮を執る事となりました。こうした戦いがあればこそ、ベルギーでの戦いはすんなり終わる事なく、イギリス軍のダンケルク撤退を可能たらしめたのでした。
そうしたドイツ軍の侵攻を受けたよその国では、政府も国王も国外逃亡と言うのが大抵でしたが、ベルギーでは政府だけが亡命し、レオポルド三世は最高司令官として降伏し、このためにベルギーではこの後も国際法上では依然として戦争状態が続き、レオポルド三世は終戦まで戦争捕虜として抑留される事となりました。
1941年、ドイツ軍の侵攻はユーゴスラヴィアに及び、国王ペータル二世はイギリスに亡命し、正規軍の生き残りを中心としたチェトニクが建前的には対独抵抗運動を行う事で、ペータル二世はそれをイギリス共々支持する一方で、自身はイギリス空軍に志願する事となりました。もっとも、現役の国王の従軍と言う事で、他の人間同様のリスクからは逃れられるように配慮されたと思います。
大戦を生き残りながらも、国土を掌握した共産パルチザンによって帰還を拒まれて、退位宣言をしないままにアメリカで客死しました。


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