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竹島はわれらが領地なり

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役職・身分の掛け持ちと転籍78

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第78回目です。
1871年成立したドイツ帝国はフランスの上を行く大国状態でして、そんな大国であれば、政府のかしらたる帝国宰相の地位とは相当魅力的な地位に一見感じられる物ですが、実際の所は、それほどでもなかったのでした。実際その地位に就いたビスマルクからして、はなから自身が就く物とは思っていなかったのでした。
ビスマルクにしてみれば、統一自体は別段目的ではなく、あくまでプロイセンのための統一と言う意識でして、最初はその地位はプロイセン外務省の下僚にさせる意図がありました。結局、帝国宰相の地位はビスマルク自身の兼務と言う事になった訳ですが、そんな事情でしたから、彼にとっては、それはついでで就いたと言うべきだったのです。統一がプロイセンのためと言うのであれば、プロイセン総理大臣の方がメインで、帝国宰相はそのついででしかないと言うのがビスマルクの意識だったのです。
素人的には帝国宰相の地位の方が注目が行くのは当然でしょう。統一によって、プロイセンも帝国の一部となってしまった以上は、プロイセン総理大臣なんぞはそれよりも下と言う風に見るのもまたしかりなのです。
しかし、ドイツの統一は、決して帝国の中に完全に吸収されたのではなく、その中で依然として主権を持っていたのです。既に述べたように、軍隊に関してはプロイセンを始めとする4王国が持っていて、その寄り合い状態で帝国の陸軍が成り立っていると言う有様でして、その他の内政上に関しても、所得税などの直接税はもっぱら領邦ごとで徴収して、帝国が別途直接税を課す事は認めていませんでした。
すなわち、本来国家において行うべき事は大抵、当時のドイツにおいては領邦ごとで完結していて、帝国において行うべき事は、多くなかったと言う事です。よって、帝国自体が大きな財源を必要とする事もなく、関税収入などのような物の他に、各領邦からの分担金によって賄う事となっていました。
かように帝国の権限とは意外と大した事がないと言える有様でした。まずはプロイセンありき。そんな意識の元でビスマルクが意図した訳でして、必然的に帝国宰相の権限は低く抑えていたのであれば、そんな物はあくまでついでと考えたとしても当然でしょう。


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君主の出撃⑰

「君主の出撃」第17回目です。
小国の君主の戦いとして一風変わっていると言える人物として、ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル侯フリードリヒ・ヴィルヘルムがいます。彼自身は父親とともにプロイセン軍に従軍して、フランス軍相手のいくさに従事します。まあ、父親に同道してと言うのであれば、前回取り上げたアンハルト・デッサウ侯家の場合もありますから、別に特別とも言えないでしょう。
1806年10月、イエナ・アウエルシュタットの戦いの戦いで父親カール・ヴィルヘルム・フェルディナントが戦死すると、フリードリヒ・ヴィルヘルムがブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル侯位を継ぐ事になりますが、ほどなく、ナポレオン一世は、この国を解体し、弟ジェロームを国王とするヴェストファーレン王国に編入してしまったので、フリードリヒ・ヴィルヘルム自身は、しばらくバーデン大公国に身を隠す事になります。
1809年、オーストリア帝国の援助で、義勇軍として黒い軍団を編成します。もっとも、原語の上では、フロリアン・ガイヤーがといつ農民戦争で率いていた物(Schwarzer Haufen)とは違いまして、こちらの方は Schwarze Schar なる女性名詞となっています。それはさておき、この軍団はフランス相手の戦いと言う事と、自国奪回がありきでして、一旦はブラウンシュヴァイクの奪回を果たしたものの、ほどなく破れて、イングランドに逃亡し、今度はイギリス軍の一員として、イベリア半島での戦いに従事しました。
1813年、プロイセン軍のおかげで自国の回復がなって、一旦はフリードリヒ・ヴィルヘルムはブラウンシュヴァイクへ帰還して、君主としてのタイトルも、ブラウンシュヴァイク公へと格上げとなりました。
一方のフランスでは、周知の通り、ナポレオン一世が1815年再起を図りまして、フリードリヒ・ヴィルヘルムは新たな部隊を編成して、対仏大同盟の一員として出撃しました。そして、カトル・ブラの戦いで戦死しました。


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役職・身分の掛け持ちと転籍77

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第77回目です。
かつてのヨーロッパでは、連隊が、さながら領地の如く貴族の世襲の持ち物とされていたと言う事は、当時としては、軍政に関する事は、そうした連隊ごとで成り立っていたと言う事でして、将校の人事も、持ち主たる貴族によって左右されていたと言う事になります。
君主ですら、統治する国は自身の持ち物と言う概念で成り立っている物だから、複数の国の君主を兼ねると言う事が良くあった時代、貴族もまた、領地同様、連隊の主を複数兼ねると言う事は前回取り上げたデアフリンガーのように存在していた訳です。
ちなみに現代のわが国におけるプロ野球チームに関しては、ひとりで複数のオーナーを兼ねると言う事はないでしょう。しかし、そうしたオーナーが直接球場と言う戦場において、そのチームを指揮すると言う事はありません。それは監督によって担われる物です。
一方、連隊のオーナーも、複数兼ねられる以上は、必ずしも直接いくさでそれを指揮するとは限らず、別途連隊長が任命される物だと言う事は必然でしょう。前者の方はレギメンツシェフ、後者の方はコマンデーアとして区別されます。シェフと言っても、コックのかしらと言う意味ではなく、元来は諸所のおかしらを意味する物でして、後者の方は、元来は単に指揮官を意味する物でして、師団長の場合でもコマンデーアを使用しています。
時が経って、連隊が貴族の持ち物と言う概念が形骸化しても、その名残と言うべきか、後々になっても名誉職的に連隊シェフは残る事になりました。実際にシェフになったからと言って、いくさで指揮を執ると言う事が別問題であると言うのであれば、しかも、シェフとなった者の持ち物とならないのであれば、そのなり手と言うのは多種多様となって行きました。
一例を上げれば、第5竜騎兵連隊のシェフとして1866年から1885年まで、マントイフェル男爵が就いていましたが、在任中に普仏戦争が起こって、マントイフェル自身は開戦時には第1軍団長。翌年には新設された南方軍司令官として従軍していました。


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君主の出撃⑯

「君主の出撃」第16回目です。
わが国でならば、例えば関ヶ原合戦において、ろくに軍歴もない徳川秀忠が家康の息子と言うだけで、中山道軍の総大将となった物ですが、近代国家においては、よしんば君主の息子と言えども、そうした高い地位と無関係に軍隊で勤務する事が当然視されるようになりました。ましてや大国の軍隊に勤務する小国の君主は、大国の君主の息子ですらない、単なる一臣下と大して変わらないと言う事です。
老デッサウ人こと、アンハルト・デッサウ侯レオポルト一世の息子レオポルト二世も、そんな1人でして、最初は父に同行しての軍務でした。そうして独自に昇進を重ね、第一次シュレージエン戦争では、父同様元帥に昇進し、フリードリヒ二世に次ぐ指揮権を獲得しました。
もっとも、厳密には、そうした従軍はレオポルト一世存命中の事でして、小国の君主としての出撃とは言えません。1747年、レオポルト一世の死により、ようやくアンハルト・デッサウ侯として即位して、一国の君主となりましたが、その在位は短く、1751年、息子のレオポルト三世にその地位は継承されました。
さて、このレオポルト三世は即位時点で11歳だったことから、叔父ディートリヒが摂政として着き、彼自身はプロイセン軍に従軍して、1757年、コリンの戦いに参加しました。この時の戦いでいくさに対する悪いイメージを抱いて、ほどなく、プロイセン軍から除隊し、アンハルト・デッサウ侯国は中立を宣言しました。
さて、ここに登場するディートリヒとは、老デッサウ人の三男として生まれ、最初はオランダ軍に勤務していたのが、1718年、プロイセン軍に転じて、大北方戦争やポーランド継承戦争にも参加しました。
1740年、オーストリア継承戦争が始まると、シュレージエンから進撃し、モルヴィッツ、ブリーク、ナイセと転戦し、1744年には、彼が司令官として従っていたマルヴィッツが急死した事で、その後任の司令官として着任するも、オーストリア軍相手に苦戦の時期でして、父からの援軍によって、急場をしのぎました。
1745年のホーエンフリートベルクでの戦いでは、レオポルト二世の指揮下でザクセン軍相手の戦いで敵を敗走させ、最終的には元帥に昇進しました。


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役職・身分の掛け持ちと転籍76

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第76回目です。
20世紀ともなりますと、既に述べた事として、オーストリア・ハプスブルク帝国の解体に伴って、つまり他律的要因によって、よその軍隊へ移ると言う形でしか軍隊での転職と言う物ができなくなってきたと言うのが事実的な所でありますが、19世紀以前においては、純然たる自己都合での軍隊の転職と言うのが良くありました。その一例として、後に軍艦の名前にもなったゲオルク・フォン・デアフリンガーであります。
彼は1606年生まれで、彼の生涯の中では代表的ないくさとして30年戦争がありまして、その中でいろんな国で軍務に就きました。その中でも1番長く勤めたのがスウェーデン軍でして、そのスウェーデン軍での従軍の中で30年戦争の終焉を迎え、スウェーデン軍から身を引きました。
その後、1654年、今度はブランデンブルク軍に仕官し、軍の再建に尽力する一方で、外交官としても働き、フェールベリンの戦いなどでスウェーデン軍相手に戦って勲功を立てて、最終的には元帥まで昇進しました。
彼の軍歴の中で一風変わっていると見られるのが3つの連隊長を兼ねると言うのがあります。これは現代的な感覚で言う、純然な軍隊内での役職と言うのではありませんでした。他でも、彼はいろんな所に所領を獲得する事ができていましたが、ここで言う連隊と言うのも、そうした領地のような物と言って良いでしょう。
戦国時代のわが国でも、どこかの戦国大名の有力な家臣ならば、複数の城の城主を兼ねると言う事があった物ですが、それもまた、与えられた領地の中心地と言う事であって、単なる役職ではなく、持ち物だと解釈すれば、そのような掛け持ちは、それまでの勲功によって大ありなのです。
さて、当時としては、連隊と言う軍隊の一構成要素は、このように貴族の持ち物である事が当たり前でして、どこかの君主に属して、いくさの折にはその君主と契約を結んで従軍すると言う形で成り立っていました。
そうした連隊が貴族に率いられる分にはまだましな方でして、中には傭兵隊長によって率いられていたならば、いくさのたびに異なる君主と契約を結んで戦うなんて事も珍しい事ではありませんでした。


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