Author:DUCE
趣味:緑地や山のほうへのハイキング
映画、ドラマ:戦争映画や時代劇が中心。アイドルやトレンディドラマの類は興味なし
外国関連:中国、韓国、北朝鮮と言った反日三馬鹿国は嫌いです。
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さてさて、本日はあいにくの曇天ではございます。いまだ日本の大半は梅雨状態ですね。それでも時たま晴天になる日もありまして、それが休みと重なったときなどは、よい休みとなります。
ワ~イ\(^∀^ )/=з=з=з ε=ε=ε=\( ^∀^)/ワ~イ
なにがワーイかといいますと、暑い夏の日といえば、みずっけの多い所への遠出にはふさわしいじゃないですか。冬ともなりますと、晴天でも、
サムイヨー((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル なわけですからねぇ。
先週の水曜日には、丹沢湖のはるか北の方にある、西丹沢自然教室と言うところにオートバイを停めて、そこを基点に3つの沢(本棚沢、白石沢、陽木沢)に沿って歩きました。
こうした渓谷歩きの中ではやはり象徴的なものとして滝があります。それを画像にて紹介しましょう。
これは「下棚の滝」でございます。
そして、これを上回る、大きな滝として「本棚の滝」と言うものがあります。
どうです。すげいでしょう。(゚∀゚)イイ! 大きいもので、1回で撮り切れずに、上下2つに分割しての撮影です。特に「本棚の滝」では、頭上に晴れ間がずばりとあったのにもかかわらず、滝のしぶきがかかってきては、
スズシーイ((((^0^;)))ガクガクブルブル とまあ、かなり冷えるところでした。
では、本題行きましょうか。「武家社会における名前と地位の相関性」の第2回目です。
第1回目では、徳川家はもともと松平姓を名乗っていたことを述べました。これは、これも既に述べたとおり、多数の庶家との別格化を図ったものでしたが、他にも効果がありました。
周知のとおり、徳川家康は最終的に征夷大将軍になることができましたが、そのためには源氏の一族でなくてはなりませんでした。別に最初からそれを意識していたと言う訳ではないでしょうが、徳川姓が選ばれたのは、それが新田源氏の一族である得川氏だったと言うところにあります。この姓を名乗ることによって、後々、天下を掌握した後で将軍に就任することができた訳です。
さて、徳川家康は、彼が生まれた時点でも既に多数の松平庶家があったのですが、これらの庶家は他の大名家のように一族扱いではなく、一般の家臣と同列にしました。その結果、江戸時代でも、「知恵伊豆」として知られる松平伊豆守が老中として就任しました。これは基本的に譜代大名からだけ老中を任命するからです。
江戸時代で大名の色分けの用語として用いられることとなった、譜代、親藩、外様のうちの親藩が将軍家の一族を示しますが、これに当てはまるのは、徳川家康の子供、あるいは異父兄弟(家康は1人っ子で、離縁された母の再嫁先の久松家がそれにあてはまる)の家系でした。
しかし、これらの親藩の全てが徳川姓を認められたわけではなく、将軍家が断絶したときのスペアとしての機能を果たすべく創設された御三家、御三卿だけ(しかも、当主と跡継ぎのみ)が徳川姓を認められていました。
ところで、徳川歴代将軍15人の名前で気になる事はないでしょうか。足利将軍15人でも二代目以降は万事「義」の字が付いていましたが、徳川家の将軍の場合、うち12人が「家」の字が付いていることが強調されるべきでしょう。
松平姓を名乗っていた家康の先祖を見てみると、「家」の字がついていた者はなく、これは家康以降の創作と見て差し支えないでしょう。同じ家系と言っても、三河の一豪族と天下の支配者と言う違いがあるがために、別個のルールをもって名前を作っていこうということなのでしょう。
既に前回述べたように、家康の跡を継いだ二代目秀忠は秀吉によって名づけられた物であって、少なくとも家康の段階では、ルールは決定されていないと見てよいでしょう。
周知のとおり三代目は家光と名乗っていましたが、その父たる秀忠は、正妻たるお江の方に引きずられることが多く、次男忠長に跡を継がせるべきか迷いました。彼自身も家康の跡を継ぐに当たって、存命していた次兄の結城秀康を乗り越えての物であったために、必ずしも長男相続を絶対視しないでもよいと考えてよかったのです。
最終的に家光の三代目継承がなると、家光はと言えば、父よりも祖父たる家康に対する思い入れが強いこともあって、自身を「二世権現」と自称するようになりました。
こうなってくると、秀忠の「忠」よりも家康の「家」の方が強い思い入れが込みあがってくるのも当然でしょう。松平家祖以来「家」の字を持つのは、彼自身と家康のみともなれば、「二世権現」をを自称する家光にしてみれば、これを後の代にも継承して行こうと思ったのに違いありません。
かくして、彼の長男には「家綱」と命名されたのでした。
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いざ立ち上がれ 口座をもたぬ人々よ!
我等の財貨を以って
我等の新しき長城を築かん 中華民族に迫り来る最大の好機
皆で株価上昇をめざせ あがれ!あがれ!あがれ! 万人が心を一つにし
株価上昇を促すのだ!
株価上昇を促すのだ!
あがれ!あがれ!あがれ!
一応、元の歌詞の一部を訂正して、替え歌を完成させましたが、実際歌うには、まだ訂正が必要でしょうね。「義勇軍行進曲」を聴きましたが、まだうまく歌えません。(^0^;)
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皆さんこんにちは。今日は昼前、雷を伴う大雨かと思えば、夕方前には雲が切れて晴れる言う、かなり極端な天気でした。
さて、今回より、新たなカテゴリーとして「三枝の笑ウインドウ」と言うのを開始します。もちろん、他のカテゴリーとの兼ね合いもありますから、毎回と言うわけには行きませんが、当ブログのタイトルを構成する「冗談」の1つの足しにはなるでしょう。
ちなみにこれもまた新聞からの転載につき、例によっての先月物は当たり前となりしょうが、その辺のところはいつものことかと、大目に見てやってください。<(_ _)>
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当ブログを訪問の皆さんこんにちは。周知のごとく、日本の歴史教育は、明治維新以降の近・現代史が自虐に歪曲されていますが、江戸時代以前はそれほどでもなく、たまには肩の力を抜いて楽しめるようなものを、見つけ出しましたので、何回かのシリーズでお送りしたいと思います。
さて、人名ですが、現代ならば、その時のはやりで恣意的に命名すると言うのが当然でしょうが、武家社会の場合は、その家の事情に応じた規則性、相関性というものを見出すことができます。
第1回目として、豊臣秀吉と徳川家康を中心に見ていきましょう。
主が家臣に対して名前の命名を行うことを「偏諱」(へんき)と言います。すなわち、名前を見ることによって、その人物の立場を知る手がかりとなります。
徳川家康はもともとは松平元信と名乗っていましたが、最初の「元」は今川義元の「元」です。これは、松平家が父の代から今川家に従属していたことから来ています。
後に元信は祖父の松平清康にあやかって改名を望みましたが、依然、義元の従属下ということで、元康と依然「元」の字がついた状態でした。
そうした事態から解放されたのが、今川義元が討ち死にした桶狭間の戦いです。息子の今川氏真は、復仇のための兵を挙げるでもなく、そうしたふがいない所に付け込んでの独立だった訳であります。
かくして、元康は織田信長と同盟を締結する一方で、徳川家康と改名したのでした。ここでは同時に改姓もしている訳ですが、松平家は14だか18だかありまして、それらと別の姓を名乗ることで、庶家とは別格だと言うことを示したのです。SFアニメで登場する艦隊旗艦は外観が他の艦と明らかに違うのをよく見かけます。そんな感覚だった訳です。
さて、徳川家康自身の名前は今川家からの独立を示していますが、徳川家全体はいまだ完全フリーの状態とは言えず、織田家の事実上の従属状態にあったと言えましょう。長男の名前が「信康」となっているのはそれを物語っています。
時は移り変わって、本能寺の変を経て、今度は豊臣秀吉が天下を平定しました。小牧・長久手の戦いでの和議で秀吉は家康の息子を養子にとることが決まりました。人質と言う意味もありましょうが、秀吉はこの、家康次男に対して「秀康」と命名しました。
後に小田原の陣があったとき、家康は三男を秀吉の下に人質として送ります。こちらの方は、掛け値なしの人質です。秀吉は「秀忠」と命名して即刻送り返しました。
家康の次男、三男が「秀」の字が付く名前を有しているのは、秀吉への従属を物語っているとみなせましょう。ですが、秀吉の立場から見た場合、同じ家康の息子でも、一方は養子。一方は人質と言う名目があるのにもかかわらず、与える名前の上でメリハリを付けていません。この辺は気になるところです。
ちなみに小田原北条氏の場合、「氏」の字が付くのは主に一族に限られており、家臣に対する偏諱では、その時の当主の下の字が与えられると言うのがほとんどでした。これに倣うならば、秀吉ならば、「吉」の字もそれ相応に使われてしかるべきだと思うのですが、いろいろ調べたところ、そうした事実はありませんでした。
後々紹介する江戸時代の大名に比べて、偏諱を受けたと判断される者を列記してみましょう。
一族として、豊臣秀頼(息子)、豊臣秀長(弟)、豊臣秀次(おい、養子)、豊臣秀勝(信長の息子、養子)、宇喜多秀家(宇喜多直家の息子、養子)、小早川秀秋(おい、養子)、結城秀康(家康次男、養子)など。
その他として、徳川秀忠、小早川秀包(ひでかね、毛利元就の九男で、小早川隆景の養子となる)、蒲生秀行、毛利秀元(毛利輝元の養子)、毛利秀就(毛利輝元の実子)、織田秀信(信長の孫)、織田秀雄(ひでかつ、信長の孫)と言ったところでしょうか。
推測ながら、「吉」の字は、秀吉にとって、特別の意味があったのでしょう。思えば、幼名が「日吉丸」。そして後に木下藤吉郎を名乗り、最終的には豊臣秀吉と終始「吉」の字が付いて回っています。
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去る5月31日は、落雷があり、所によっては雹が降ったそうですが、←川崎市だったりする。 幸い自分の場合は、休みで家にいましたから、昨年のように悲惨な思いはしなくて済みました。 ε=(´O`;)
昨年の今頃は箱根に行きましたが、山中で、激しい雨と雹に出くわして悲惨な思いをしました。 ・゚・(つД`)・゚・ ウェ―ン (これは先月末にも書きましたな)
農漁村にベトナムの花嫁(韓国)
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