ちまたでは節電対策と言う奴で、日の当たる方角の窓のまん前につる系の植物を植えて窓を隠す事がはやっています。そのために今年はゴーヤなどの苗の値が高くなっているようです。自分の所では今年はこれまでの朝顔に代えてゴーヤとひょうたんにしたところ、育ちが良く今ではほぼ窓を覆いつくせるほどになっていますが、ひょうたんの方は育ちすぎてつるが上の方に突き抜けてしまった一方で、下の葉っぱがぽつぽつ枯れて来ている有様でして、少なくとも夏の間は肝心な部分がしっかり残るのかがきがかりであります。
さて、今日の本題は「多文化共生」とか外国との友好に関して述べてみます。これまでわが国の場合、この種の事を行うに当たって、まず友好ありきで推し進められる事が多く、肝心のわが国にとってのメリットの方でないがしろにされてきたと思われます。要するにいちいちわが国の方で割を食う形になっていると言うことです。
たとえば、昨年の秋には在日イスラム教徒に関して取り上げた事として、今の日本の法律では彼らの流儀にのっとった墓が建てられないことで、彼らが困っていると言うことです。この点では、自分としては、既存の法律に従って暮らすべしと主張しました。
この件に関しては、彼らの流儀の墓などは別段、わが国にとって得になる事ではなく、ただ彼らのとってのみ都合が良い事に過ぎません。元の国に鎮座する事を否定してまでも異教徒主体の国に移住したのは彼ら自身ですから彼らの方で何がしかの我慢をすべき事は当然でしょう。
わが国の場合、キリシタンのなり手ですら高が知れている訳ですが、外来文化の多くはキリシタンの国からもたらされている物でして、それに比べてイスラム系文化の、わが国にとっての貢献度はなきに等しい物です。
この辺の所にわが国にとってのイスラム系の不要振りがてきめんに現れていると言って良く、自ら用いても面白くない物だから、そのとどのつまりがイスラム流儀の墓が認められないと言ってよい訳です。
一方、おととしには野元准教授の元でいくつかの学校で外国語を学ぼうと言う施策が推し進められました。外国語と言っても、ちまたにあるような語学学校での学習と言うよりは、その公立学校に通う外国人生徒が用いるマイナー言語が学習の対象となる物です。
この件に関して、自分としては単に実用性で怪しい物に関しては否定的でしたし、しかも、その動機と言うのが親のエゴに基づく物ですから、ますます否定的でした。自らの意志で来日しておきながら、自ら日本語を学ばず、しかも子供に対しても母語の教育をないがしろにしているからこのような施策に至ったわけです。
野元のあほうは、かような事態に対して単なるエゴイストに過ぎない親に対して憐憫感を持って彼らの母語を公立学校の教育の場に持ち込むと言う愚行に至りました。一緒に学ぶ日本人にしても、いろんな言語が学べるチャンスと見ているようですが、繰り返して実用性の点で否定的ですね。
こう言う機会でそれらの言語を学んでマスターできたとしても、結局の所、役に立つのは日本に鎮座する外国人どものエゴにおもねるだけでしかないでしょう。つまり、そうした馬鹿どもに対していい顔をするだけのことであって、学んだ本人にとって真に得になるかどうかと言う本来指摘されるべき点がそこでもないがしろにされているのですよ。
もし、真に得になる事があるとしたら、こうした馬鹿どもが与り知らない所でも価値がある物だと本人から自覚する事でしょう。自らそれらの外国に関心を持って、場合によっては自らそうした外国に出向く事を欲すると言うような事態になれば大満足でしょう。
しかし、野元が推し進める分は、外国人の方で日本語をマスターすればそんな必要などないと言う環境の下で行っているのに過ぎません。中には不法滞在者からして、自身の生まれ国には戻りたくないがために、自分自身ないしは子供にその言語を学ぶ事を否定しているなんてケースもあります。
日本に居つく外国人からして、その言語が必要な環境を否定するケースもあり得る現状の元で、どうしてそんな言語を学ぶ価値があると言うのでしょうか。
多文化共生はまず以ってわが国のメリットから見直すべし!
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