みなさんおはようございます。今日は、多文化共生に対して批判的な発想を持つ者として興味深い記事を見つけましたので、ご覧下さい。
大阪市阿倍野区の路上で、飲食店経営のネパール人、ビシュヌ・プラサド・ダマラさん(42)が日本人の若者グループに殺害された事件から16日で1か月たつ。
事件に心を痛めた人たちから、遺族に弔慰金や手紙を送る動きが広がり、25日には、冥福を祈る僧侶たちが同市中央区の法善寺で法要を営むという。いずれも、理不尽な暴力に最後まで無抵抗を貫いたダマラさんに「日本人として申し訳ない」という気持ちからだ。
詳細はここからまずもって事件は日本で行われた以上、下手人が日本人であって別段驚く事ではありますまい。何も外国人の身に的を絞って行われたのではないでしょう。日本人同士の中でも同様な事件は多多あるじゃないですか。
にもかかわらず、ここで取り上げた中ではあたかも日本国を代表とする事を前提として弔意を示し、謝罪をしようとするおめでたいやからがいます。
「どうかこの事で日本を嫌いにならないでほしい」
そんな風に遺族に対して弔意、謝罪にふける者がいるようですが、自分としては別段、自分自身の犯罪でもない事で、日本国全体を持ち出さないでもらいたいと思います。
そもそも、被害者本人だに、日本社会の外国人に対する偏見を感じていたと話していたとか。では、なんで被害者本人はそうなるまで日本に居ついたのでしょうか。偏見を意識するのであれば無理して日本に居つかないでもいいじゃないですか。
結局の所、自分の言葉で言えば「不二子る」と言う事に尽きるのではないでしょうか。日本に限らず、ヨーロッパやアメリカでも差別だか偏見だか指摘されていますが、それ以外の地域では同様の事がそれほど指摘されるような事はないように見受けます。むしろ、そうした事を口実にとっととずらかると言うケースが指摘され、無理してまで居つくと言うケースは先進国限定と言ってもいいのではないでしょうか。
弔意、謝罪にふける者は往々にして、この事で日本が嫌われるのではないかと恐れているようですが、では、そうした外国人が存在することで、これまで格別得になった事があるのでしょうか。せいぜい1人の人間、1つの家族とのよしみがあったと言うだけの事であって、ネパール人ないしネパールとのよしみがあったとは言えないでしょう。
元々我が国になく、それらの連中が存在した事で、今や不可欠にになった物が持ち込まれたと言う訳でもありますまい。所詮は、不法滞在外国人に対する同心と同じレベルに過ぎないのではないでしょうか。
上記の危惧をするやからは、恐らくは日本とネパールとの友好にひびが入る事でも恐れていると思うのですが、そんな事を恐れているとしたら、意外とネパールに対して無関心で、大事なのは自分自身の軽薄な見栄っ張りの心の方じゃないでしょうか。ただひたすら外国に対するいい奴面する事の方が大事で、単なる外国人の1人でしかない被害者は、そうした見栄っ張りのために利用されただけに過ぎないのです。
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