【戦国こぼれ話】戦国大名ら武将に与えられた官職。その複雑な構造をわかりやすく解説する昔の会社の役職は、係長、課長、部長などだったが、今は横文字の役職(チームリーダーとか)も増えた。日本では律令の時代から官職が定められ、綿々と続いた。今回は、その複雑な構造をわかりやすく解説することにしよう。
■官位と官途の意味
官位とは、律令制下の官職と位階(官僚の序列)の総称のことだ。律令制の施行に伴い、中央には二官(太政官・神祇官)と八省(中務省・式部省・治部省・民部省は左弁官局、兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省)を中心とする官職が置かれた。また、地方には国司などの地方官が設置され、これを官途と称したのである。
律令官人制機構では、位階による官人の序列と、機構における官職の位置との対応関係があった。これを官位相当制という。たとえば、太政大臣になるには、正一位または従一位という位階が必要となるなどだ。
■中世における手続き
鎌倉時代において、源頼朝は御家人が朝廷から直接官職を授けられることを禁じた。基本的に頼朝が官職を推挙することとし、以後も基本的にこのスタイルが継承され、叙位任官も幕府による御恩の一つとなった。
室町幕府では、まず叙任を希望する者が室町幕府の官途奉行に申請を行う(申請先は例外がある)。申請は官途奉行から、叙任の概要を記した文書(挙状など)を添えて、朝廷の叙任を担当する職事(弁官・蔵人)へ伝えられた。
叙任の件は、職事から上卿(業務を指揮する公卿)を経て、さらに外記局(除目・叙位などの儀式を執行する職)に詳細が伝えられた。
そして、口宣案(くぜんあん)という辞令書、そして位記(位階を授けるときに与える文書)または宣旨を作成する。口宣案などは職事から幕府を経て申請者に届けられ、申請者は相応の謝礼を幕府や朝廷に届けて完了だ。
戦国時代になると、手続きは簡素化された。重要なことは申請して官位を獲得する例よりも、私称する例のほうが多いことだ。おおむね室町幕府の三代将軍・足利義満の時代から顕著になったといわれている。つまり、多くの武将は正式な手続きを踏まえず、勝手に「播磨守」などと名乗っていたのである。
むろん、それはあくまで私称なので、周囲からそう認識される必要があった。たとえば、極端に言えば、太政大臣などと私称しても無視されるだけなので、ほどほどのふさわしそうな官途を名乗っていたようだ。
■戦国時代の官位申請
戦国時代には幕府の衰退に伴い、直接、朝廷に官位を申請する例が急増する。朝廷では財政が窮乏化するという苦しい台所事情もあり、大名からの礼金を目当てにして、官位を売る事例が頻繁に見られるようになった。
しかし、大名の格はさすがに考慮されたようで、地方の武将が身分不相応な官途を申請するなど、著しくバランスを逸する場合は拒否することもあった。
また、将軍の陪臣(大名の家臣)は、基本的に正式なルートで任官されなかった。ところが、戦国時代には、大内義隆の家臣らが正式な手続きを踏まえて任官されるようになる。ただ、これは例外的な措置だった。
■官途には効果があったのか
受領官途(三河守など)を大名が得ることにより、領国支配を円滑に行ったり、対外的に優位に立つ効果があったのか否かという問題がある。これを在国受領の在地効果説という。従前、戦国時代の官途は意味がなく空名であるといわれてきたことに対する問題提起だった。
官途の実利的な効果の例としては、織田信秀と今川義元の三河守の例などがあるが、受領官途の在地効果を検証するに際して過大評価、もしくは不適当であると指摘されている。
受領官途と支配する国との関係は考慮されているかという点については、特に関係がない。受領官途と支配する国は、一致する例もあるが、関係ないものも少なくない。
官途は受け取る側が何らかの効果があると思い、有効的に支配を進めるための名分に過ぎない。支配される領民やほかの大名がどう受け取るのかは別の問題であり、そのことを史料に基づき実証するのは極めて困難なのだ。
江戸時代ともなれば、全ての官位を幕府で管理する事は可能だったのでしょうが、戦国時代の場合は無理だったのでしょうね。
とりわけ、〇〇守のような官位は何十かしかないと言う事が明らかでしょうから、それからすれば、戦国時代全体を概観すれば、明らかに過剰だと直感ででも理解できる話です。どこの戦国大名でも家臣の誰かが〇〇守を名乗っていたとしたら、絶対過剰状態にある事が分かると言う物です。
しかも、記事にもあるように、周囲からも認知してもらう必要があると言う事から、それは純然たる私称とは行かず、個々の戦国大名の中で別個に完結していたと言う事なのでしょう。
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