今川・武田・北条ら「外様」の遺臣で戦力を高めた「徳川家臣団」■版図拡大、信長への加勢──各地で戦う三河武士団 三河を統一した家康は、今川氏の領国・遠江(とおとうみ)進出を視野に入れた。当然ながら今川家臣団の切り崩しを図るが、義元の後継者・氏真(うじざね)の抵抗もあって円滑には進まない。こうした最中の永禄11年(1568)、甲斐の武田信玄が駿河に進出すると、これを機に家康は遠江に兵を出し、高天神(たかてんじん)城・小笠原信興(のぶおき)、久野(くのう)城・久野宗能(むねよし)らを下した。
遠江を平定した家康は、元亀元年(1570)1月には三河・岡崎城から遠江・浜松城(曳馬/ひくま/城、後に新築)に居城を移し、新たな本拠地とした。
岡崎城は嫡男・信康(のぶやす)が守り、それまで「西三河の旗頭(家老)」であった石川家成(いえなり/掛川城主として転出)に代わって甥の石川数正(かずまさ)が信康の補佐となった。信康は信長の娘・徳姫と結婚した。始めは友好的であった武田氏との関係が、今川領を巡って悪化した。
武田との抗争が続く中、信長は将軍・足利義昭(よしあき)を擁して京都に入り、その後も姉川(あねがわ)合戦など数々の合戦を行うが、家康の徳川軍団もこれに参陣することになる。
そして元亀3年(1572)12月の三方ヶ原(みかたがはら)合戦では、3万2千の武田軍団に対して家康は1万1千で挑んだ結果、大敗北を喫する。この時、留守居として浜松城にいた側近の1人・夏目吉信(なつめよしのぶ)は、窮地に陥った家康の苦戦を櫓(やぐら)上から見て慌てて出陣した。戦場で家康の馬に鞭を当てて城に向かわせると、自らが身替わりになって武田軍に突撃して壮絶な討ち死にを遂げた。
■今川、武田家の旧臣を徳川家臣団に取り込む だが、さしもの武田氏も信玄没後に後継者となった勝頼が、天正10年(1582)3月に甲斐・天目山田野(てんもくざんたの)で滅亡し、6月に本能寺の変によって信長が討ち死にすると、その後は甲斐・信濃・上野(こうずけ)などの領地を巡って北条・上杉・徳川の抗争が起きる。天正壬午(てんしょうじんご)の戦いである。この合戦を通じて家康は、甲斐・信濃に逼塞していた武田と、同時に今川旧臣の大半も取り込んだ。
これまでの三河以来の家臣団と違って武田・今川旧臣には異能・異才の持ち主が多く、家康の家臣団に幅と深みが出た。
三河時代に持っていなかった武田海賊衆(水軍)が配下に加わったのも大きな収穫だった。小浜景隆(おはまかげたか)・間宮信高(まみやのぶたか)・向井正綱(むかいまさつな)が新規の水軍の将であったが、彼らは後に秀吉との「小牧・長久手の戦い」で秀吉方の九鬼嘉隆(くきよしたか)の水軍を破る手柄を立てる。
こうして家康は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃5カ国を領する大大名になった。だが、家康には青天の霹靂(へきれき)とも思える事件が起きる。天正13年(1585)11月、重臣・石川数正が岡崎から突然出奔(しゅっぽん)し、大坂の秀吉のもとに走ったのだ。三河武士団からの離反である。家康は、このために徳川軍法を変更して「武田軍法」の採用に踏み切るのである。
その後、家康は天下人・秀吉に協力し、天正18年(1590)の小田原・北条氏との戦いにも参陣。合戦後には秀吉の命令で、領国5カ国を秀吉の預かりとされ、北条氏の遺領である小田原を含む関東(伊豆・相模・武蔵・下総/しもうさ・上総/かずさ・上野240万石)に転封(てんぽう)となった。
この際にも、北条の旧臣を取り込んでいる。三河以来の家臣団は、この転封に憤懣(ふんまん)やるかたなかった。家康も耐えた。「我らが一丸となって御屋形様を支えるしかあるまい」。この関東移封は、逆に家臣団の絆を強固にした。
8月1日江戸入りした家康は、榊原康政(さかきばらやすまさ)を総奉行として家臣団の知行割りを行った。榊原の下には青山忠成(ただなり)・伊那忠次(いなただつぐ)を置き、さらに武田旧臣の大久保長安(ながやす)らを動員して昼夜兼行で作業を行った。
中小級の譜代層は江戸に近い場所、上級家臣は知行の大きい者ほど江戸から遠い場所に配置する方法を取った。軍事面を考慮に入れて大名に取り立てた多くの上級家臣は、利根川の川筋に沿って配置した。この江戸入りによって、家康の家臣団は新しい局面に入る。
監修・文/江宮隆之
小田原の陣の後の、関東への転封は少なからず不愉快な物である一方で、領地の再配置と言う視点からすれば、必ずしも家康にとっては悪くない事だったでしょう。三河と言う、既存の土地を有している内は、それを基準に家臣団の領地を決めて行かないといけない部分がありまして、すなわち、元からの家臣に対する三河にある領地はそのまんまと言う形で、新たな領地は往々にして、そうした既存の領地からかけ離れた形で与えないといけなかったのが、関東と言う、全く異なる場所に移った事で、完全にゼロから始める事が出来ました。
その結果、何やら艦隊の輪形陣みたいな形で領地の再配置が可能になりましたね。もっとも、艦隊の輪形陣とは真逆で、戦艦のような有力な家臣は外縁部に、小身の家臣がより近い所へ配置と言う事ではありましたが。まあ、当時のいくさの陣立ての場合を考えれば、それで良い訳ですがね。
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