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独伊仏の文化と歴史・歴史編4

特に意味はありませんが、今回のテーマにふさわしく、ドイツ軍のシンボルたる鉄十字の画像をどうぞ。



19世紀のヨーロッパの3大事件と言えば(DUCEの独断でですが)、ナポレオン戦争、1848年革命、そして普仏戦争です。前者2つの事件に比べれば、普仏戦争はそのいくさの範囲が限定されていたとは言え、その影響からすれば、前者2つに後れを取ることはないでしょう。


意外なるプロイセンの没落


これとほぼ同時期に行われた日本の戊辰戦争では、佐幕、倒幕のいかんを問わず、藩主は軒並み没落し、新体制の下で爵位を持つにとどまりました。薩摩藩の島津久光ですら、ドラマの「田原坂」で、廃藩置県に関する報告にやってきた黒田清隆に対して、「お前はもともと茶坊主だったじゃないか。いったい誰のおかげで、そこまで出世できたと思っているんだ。余のおかげじゃないか」とまあ、怒りをあらわにしたものですが、時代に流れに抗し切れずに、かつての藩主に相当する権限である県知事は平民出身でも就けるようになっていきました。


これに対して普仏戦争で成立したドイツ帝国は、君侯同盟から発展したものであって、同盟の旗頭としてのプロイセン国王が皇帝に就く形式を取っており、江戸時代の幕藩体制における将軍と大名との主従関係のような物はありませんでした。


なるほど、参謀本部こそプロイセン王国のものが兼用されましたが、別段プロイセン政府がドイツ帝国政府としての機能を持ったわけではありません。しかも、その地位に就く者は皇帝が任命できると言うだけで、別段プロイセン人限定と言う決まりもなかったのです。


まあ、それでもプロイセン人たるビスマルクが帝国宰相の地位にあった時代はプロイセン優位の状態はかろうじて保たれていましたが、皇帝も3代目ヴィルヘルム二世のころになって、ビスマルクが辞任するようになってくると、プロイセンは所詮はもはや、国際的に一自治州のごとき有様に過ぎず、それに比べてドイツ帝国はフランスよりも大国である以上、こちらのほうを重視するようになっていくのは時代の流れと言う奴でしょう。


江戸時代の老中が譜代大名によって占められたのに対して、ヴィルヘルム二世は帝国宰相の地位を外様たるプロイセン人以外の者に与えることを躊躇しませんでした。そして巨大海軍の創設を意図するようになったのも彼のころからでした。陸軍と違って、海軍は、ドイツが1つであると言うことを前提にしなくてはうまくできないもので、この辺にもプロイセンの優位が崩れる兆しが見えてきました。


負けるが勝ち? のプロイセン


もし、普仏戦争がフランスの勝利に終わるとすれば、それは当時北ドイツ連邦に加わっていなかった南部ドイツ諸国がフランスに味方した場合でしょう。その場合、フランスの第二帝政は少なくともしばらくは安泰で、ナポレオン三世が退位する事はなかったでしょう。


日本の戊辰戦争ですら、藩主の親率はあまりなく、元来下級藩士だった者が参謀のような肩書きを与えられて指揮を取ったケースが多かったのに対して、普仏戦争ではナポレオン三世は伯父にならって親率を行ったばかりに、宣戦布告をしてからわずか1月半後のセダン会戦で早くも捕虜になってしまいました。


この戦いがフランスの勝利に終わった場合、ドイツの側でもドイツ帝国が成立することはなく、北ドイツ連邦が解体し、プロイセン国王ヴィルヘルム一世は退位し、さらにはプロイセンがウィーン体制の下で獲得したラインラントがフランス領に割譲と言うこともありえましょう。


そして、そのことは当然のこととして、ドイツ帝国が成立しないわけですから、依然としてバイエルンとプロイセンとは引き続き別の国家として存在し続けることになります。その場合、案外プロイセンが現在もいまだに存在し続けていたのかも知れません。


バイエルンの台頭


ここでなぜ、バイエルンなのか。歴史的にも、バイエルンはプロイセンよりもフランスよりだったと言えます。宗教にしても、カトリックが優位です。ちなみに現在のドイツでカトリック政党としてCDU(キリスト教民主同盟)とCSU(キリスト教社会同盟)がありますが、後者はバイエルンだけで成り立っている政党です。


これ以前でも、18世紀初めに起こったスペイン継承戦争では、バイエルンはスペインの次期国王をブルボン家(フランス王室)から出すと言うフランスの主張を支持しましたし、1805年に王国を名乗ることができたのもフランスのおかげだったのです。そうした経緯を考えれば、普仏戦争の折にフランスを支持する可能性も少なくなかったわけです。


普仏戦争では何とかバイエルンはプロイセンの味方に付いてくれた物の、いったん皇帝に即位したヴィルヘルム一世がその事を意外なことに「プロイセンの没落の始まり」として嘆いたのも、かような「厄介者」を抱え込まなくてはならないことが一因だったと思われます。


せいぜい同盟関係にとどまっていてくれて、プロイセンの領域に入り込まないように仕向ければ、いまだにプロイセンは、今のモンゴルのように存在し続けたでしょう。もともと女真族が存在した満州も清王朝の元で中国本土を取り込んでひとつの国家を構成してしまったばかりに今では中国人が大半を占めているではないですか。


第一次世界大戦では、またもやフランスを敵に回すことになったのにもかかわらず、もはやバイエルンがプロイセンと争うことはなく、バイエルン人はフランス相手のいくさに加わることになりました。ハインリヒ・ヒムラーの名付け親となったハインリヒ王子も、オーストリアからやってきたヒトラーもバイエルン軍に加わって従軍しましたが、当然、それはプロイセンのためのいくさではなく、あくまでドイツのためのいくさでした。


そして、1918年11月7日、ミュンヒェンで起こった革命を契機に革命がドイツ全体に広がり、最後には皇帝の退位へと進行します。ただでさえ、共和制が成立してしまえば、その段階でプロイセンの政治的優位という物がなくなってしまうのに、この後、台頭してきたナチ党はバイエルンで起こった物であります。


まだ「独伊仏の文化と歴史」は完結ではありませんよ。乞うご期待。(^0^)/^^^^^


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テーマ : 歴史 - ジャンル : 政治・経済

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コメント

バイエルンっつーと、ルードヴィヒ2世とヴァーグナーと、オクトーバーフェストくらいしか即座に思いつかんww

ロマンチック街道もあって、古い町並みが保存されているし、のどかな田園風景もあっていいトコですね。

阿麗☆さんへ

たびたびの訪問ありがとうございます。<(_ _)>

外国の知識と言うと、実際に現場行く訳じゃないですから、そっちのほうはあまり詳しくないです。まあ、国内でも、関東以外はほとんど行かないですから、似たようなものですが。(^_^;)

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