FC2ブログ

プロフィール

DUCE

Author:DUCE
趣味:緑地や山のほうへのハイキング
映画、ドラマ:戦争映画や時代劇が中心。アイドルやトレンディドラマの類は興味なし
外国関連:中国、韓国、北朝鮮と言った反日三馬鹿国は嫌いです。

竹島はわれらが領地なり

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

キター!

キター

plugin by F.B

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

独伊仏の文化と歴史・歴史編5



さて、今回で「独伊仏の文化と歴史・歴史編」は完結編といたします。これまで新しいところから始まって、おおむね古いほうは後回しと言う逆の順序をたどってきましたが、今回はその順序に従って、もっと古い時代をお送りします。


プロイセンの生い立ち


さて、今もってドイツ連邦共和国の首都がベルリンにあるのは、直接の根拠として、ドイツ帝国統一の中核を担ったプロイセン王国の首都であったところにあります。まあ、この辺のところは、日本でも似ていますな。


小田原の陣の後、東海地方から関東に移ってきた徳川家康が江戸に城を築いて、それが江戸時代の礎となりました。


では、プロイセン王国自体の生い立ちはどうなっているのでしょうか。元はと言えば、ベルリンを中心とする一帯はプロイセンとは無関係なところであって、かつてはブランデンブルク辺境伯領と呼ばれていました。


ベルリンには今もブランデンブルク門があり、観光の名所となっています。さてさて、「辺境伯領」などと見慣れぬ言葉が登場しましたが、これこそ、ベルリンの元来の立場だったようですね。辺境の地だった訳です。


日本の東京もかつては、京都の公家たちから東夷(あずまえびす)と称された、東部の辺境地扱いだった訳で、この点でもベルリンとの共通点を見出せます。


プロイセン公国


1415年、この地にホーエンツォレルン家←(慣れないとうまく発音できないこと請け合いの(と思う)ややこしい家名ですねぇ)のフリードリヒ一世がブランデンブルク辺境伯として封じられたところから、この歴史は始まります。


狭義のプロイセンは、もっと東のほう、バルト海沿岸にありました。当然、今の地図でそれを探すことはできません。今の地図で言うならば、ロシア連邦の飛び地がある、カリーニングラード。この地がプロイセンの中心地です。


この地には、ホーエンツォレルン家の一族が総長を勤めるドイツ騎士団領があり、これが後にプロイセン公国となりました。後にこの一族は男系断絶し、ベルリンの本家が併せて相続することになりました。


スペイン継承戦争


さて、当時ドイツを代表していたのは、オーストリアでした。当時のドイツは完璧な統一状態になく、神聖ローマ帝国と言う怪しげなタイトルの下に緩やかな状態にありました。そんな変則的な状態の下でも、曲がりなりにも帝国として存在する以上、皇帝が必要で、当時はオーストリアのハプスブルク家から皇帝が出ていました。


ハプスブルク家と言えば、16世紀のはじめころからスペイン王室も戴いており、当時のスペイン王国の版図を見てみれば、最強の王家だったと言えます。おりしも、日本が鉄砲伝来とか、キリスト教布教とかで西洋との交流が始まったのはこのころだったのです。


そのハプスブルク朝のスペインも、1700年、カルロス二世の死により断絶を迎えます。この後継者として、フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家が争うことになりました。両家の当主はいずれも、スペイン・ハプスブルク家から后を迎えていたからです。


ここで、神聖ローマ帝国がまっとうな帝国だったならば、オーストリアのレオポルト一世は皇帝として、帝国の諸侯に対して、命令を出して、フランスと戦ってスペインの王位獲得を目指せばよかったのですが、それほど強い関係を持ちえませんでした。


プロイセン王国の成立


この後のことは、場合によっては「朝敵」の登場ももたらしました。帝国の諸侯の中にはフランスを支持する者もいました。そんな有様でしたから、逆に味方に付くのにも、交換条件を必要とすることもありました。


その代表的なのがブランデンブルクでした。ブランデンブルクのフリードリヒ三世は自身の王位昇格と引き換えに、オーストリア支持を申し出ました。


結局のところ、スペイン王室はブルボン家のフェリペ五世(ルイ十四世の孫)が就く事になり、こうした援助は仇花となりましたが、皇帝はフリードリヒ三世の要求を認めましたが、ただ、帝国内ではだめとのことでした。


そのため、フリードリヒ三世は帝国に属していなかった、ホーエンツォレルン家の飛び地であった、プロイセン公国のケーニヒスベルク(今のカリーニングラード)において、プロイセン国王フリードリヒ一世として即位しました。


もし、この即位がベルリンで行われたならば、飛び地なんぞを国名とする必要はなく、ブランデンブルク王国と名乗ることができたでしょう。しかし、こうした変則的な手段のために、以降、ホーエンツォレルン家の全領地はプロイセン王国と呼ばれるようになっていきました。


軍管区への影響


どこの国でも首都を中心に考えるのは当然行われることであり、日本でも、明治維新以降、鉄道の設置が東京の新橋から始まったし、国道1号線のタイトルは東京を基点とする東海道に与えられました。


そして、師団の編成でも、第1師団は東京を原駐地としていました。そうなってくると、よその国でも同様ではないかとみなさんも思うでしょう。


日本では軍団制が存在しなかったのに対して、ドイツでは軍団制があり、普段は軍管区として存在していて、管区内で編成された2ないし3個師団を、戦時には、軍管区司令官が軍団長として率いて出撃することになっていました。


こうした事情から、軍管区も軍団もローマ数字で表記すると言うのが正式だったようです。そうなってくると、ベルリンに司令部を置く軍管区は第1軍管区かと思われますが、なせかしらんか、第3軍管区となっていました。


実のところが第1軍管区司令部はケーニヒスベルクにありました。ひょっとしたら、こうした番号付けの根拠は、ブランデンブルク王国ではなくプロイセン王国だったところにあったのではないでしょうか。


歴史の世界では、消滅したプロイセンのほうが有名だぞ。クリックお願いします。 <(_ _)>  


にほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 歴史ブログへにほんブログ村 その他ブログへブログランキング・にほんブログ村へ

スポンサーサイト



テーマ : 歴史 - ジャンル : 政治・経済

<< 週刊アジア第19号 | ホーム | ソ連兵士像めぐりエストニア二分 >>


コメント

>>ブランデンブルク王国ではなくプロイセン王国だったところにあったのではないでしょうか

(゚-゚*)(。。*)ウンウン 私もそー思う。


>>当然、今の地図でそれを探すことはできません。

私の持ってる独和辞典には、はっきりと『Ost Preußen』とあります。
いつのだろ?
帰ったら見ときますww
(和独辞典はドイツ連邦だけなんだけど)

それと、独逸語は単語が長くなりがちで、言いにくい事がよくありますねー。
昨日も久しぶりにドイツ語会話見てたらロレツが回らなくなってて自分でもびっくりしたわww

阿麗☆さんへ

たびたびの訪問ありがとうございます。

>私の持ってる独和辞典には、はっきりと『Ost Preußen』とあります。
いつのだろ?

うーん、それはふるいなぁ。戦前のですかな?

>それと、独逸語は単語が長くなりがちで、言いにくい事がよくありますねー。

英語の場合、形容詞の比較変化ではちょっと長くなると、前に more や the most をつけて、後ろに er や est を付けますが、ドイツ語の場合、どんなに長くなろうと、そういった発想がないのが一例ですね。まあ、もともとの形容詞が長いから、後についても、たかがなんでしょうなぁ。

↑違ったw

初版は昭和36年でしたw σ(^◇^;)
昭和46年の版みたい。

『Ost Preußen』じゃなくて、1937年の国境線と書いてますね。
Königsberg(Kaliningrad)とも書いてますww
GdanskもDanzigになってますね。
まにや受けするような辞書ですねww

阿麗☆さんへ

>まにや受けするような辞書ですねww

古いドイツ語地名はマニア受けしますかな。(´∀`*)ウフフ

エルザス・ロートリンゲン→アルザス・ロレーヌ
シュトラースブルク→ストラスブール
ポーゼン→ポズナン
クラカウ→クラークフ
ブレスラウ→ブロツラフ
レンベルク→リヴォフ

このていどならばともかく、1番ややこしいのは

シュトゥールヴァイセンブルク→セーケシュフェヘールバール

このハンガリー語の地名は非常に発音しにくいです。
ヽ(_ _ヽ)彡ドテッ!

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


浜崎あゆみ台湾コンサートでの衝撃ポロリ映像!!

ここのところ、人気が下降線を辿っている歌姫・浜崎あゆみ。そんな彼女もここで挽回とばかりに、台湾でのコンサートで、なんと白ビキニにレースクイーンコスプレを披露する気合の入りようだ。ゴンドラに乗って、陽気にはしゃぐ浜崎が白ビキニのまま、ヒップラインを無防備に


 BLOG TOP