FC2ブログ

プロフィール

DUCE

Author:DUCE
趣味:緑地や山のほうへのハイキング
映画、ドラマ:戦争映画や時代劇が中心。アイドルやトレンディドラマの類は興味なし
外国関連:中国、韓国、北朝鮮と言った反日三馬鹿国は嫌いです。

竹島はわれらが領地なり

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

キター!

キター

plugin by F.B

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

役職・身分の掛け持ちと転籍89

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第89回目です。
ビスマルクの後任として、帝国宰相に就任したカプリ―ヴィは、前任者同様プロイセン総理大臣も兼ねていました。もっとも、それ自体は2年後に仔細があって、プロイセン総理大臣の地位はボート・ツー・オイレンブルクがプロイセン内務大臣との抱き合わせで引き継ぐ事となりました。
しかし、権限の分割も長続きせず、1894年、両者は解任されました。さて、その後任を決めるのは皇帝兼プロイセン国王たるヴィルヘルム二世と言う事でありますが、祖父と違ってプロイセン意識と言う物を持たないでいた物だから、皇帝でさえあればプロイセン国王でもあると言う事に関しては、大して意識を意識を持っていませんでした。彼にしてみればプロイセンも所詮は帝国の一部でしかないと言う事なのでしょう。
そんな意識を持った人間によって新たに帝国宰相に任命されたのが、クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ・シリングスフュルストなるバイエルンの侯爵でした。帝国の中におけるプロイセンのウェイトからすれば、格別プロイセン意識がなくても、高い確率でプロイセン人が帝国宰相に就くはずでしたが、このような人事がなされると言う事は、いよいよヴィルヘルム二世の意識がプロイセンから遠ざかって行っていると言う事を示していると言えましょう。帝国の中では「外様」と言って良いホーエンローエは、プロイセンからすれば「外国人」であるのにもかかわらず、プロイセン総理大臣を兼ねる事となりました。
そして、1900年からは新たな帝国宰相としてベルンハルト・フォン・ビューローが就く事となりましたが、ここで一旦「外務大臣」に話をそらしてみましょう。ビューロー自身は父親から2代続けての外交官だったからであります。
1862年、ビスマルクがプロイセン総理大臣に就任した時、抱き合わせで外務大臣にも就きました。9年後のドイツ帝国の成立によって、本来ならば、そうしたプロイセン外務大臣の地位は用済みか、あるいは帝国外務長官へと発展解消したのかと思われたのですが、帝国成立後にも、諸領邦がそれまで持っていた外交権は維持される事が認められていました。つまり、既存の外務省も、外国に配置された大使館も従前通り維持して良しと言う事なのでした。
まあ、そんな状態で、諸領邦の外交と言う物が、諸外国からどのように見られていたかは定かではありません。せいぜいの所が姉妹都市のような当たり障りのない物だったのではないでしょうか。


長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^


クリックお願いします。<(_ _)>

クリックをよろしくお願いしますです。(人∀・)タノム



韓国(海外生活・情報) ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ 


人気サイトランキングへ

















スポンサーサイト



<< 韓国ではいんちきをしないと不買運動を長持ちさせる事ができないのだ | ホーム | 狂気が増幅だ・8 >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 BLOG TOP