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役職・身分の掛け持ちと転籍90

「役職・身分の掛け持ちと転籍」第90回目です。
ドイツ第二帝国においては、統一がなっても、諸領邦が有している既存の外交権が維持されると言う事でした。その事は、プロイセンにおいても例外なしと言う事であります。それはよしんば統一がなっても、それを完璧な統一国家とするよりは、国家連合的な要素を多分に残した物だと言う事を示す物でありました。
とは言え、それでも依然として不可解な面がないとも言えません。何しろプロイセン外務省の存在を維持したまま、帝国外務省が立ち上がったのです。いっその事参謀本部並みに、プロイセン外務省が帝国外務省の機能を兼ねてしまえば、その方が理解もしやすかったでしょう。何しろビスマルク自身がプロイセン外務大臣でもあるのです。そのような状態で別個に帝国外務省を立ち上げても、結局の所、彼によって牛耳られるしかなかったのです。
20年以上前に購入した、山川出版社のドイツ史第2巻と第3巻ですが、ビスマルク時代には帝国外務長官とプロイセン外務大臣に誰が就いているかと言う記載がなかった一方で、ヴィルヘルム時代の始まるたるカプリ―ヴィの時には、帝国外務長官としてアドルフ・マルシャルが就き、プロイセン外務大臣としてカプリ―ヴィの兼務だったと記載がありました。
改めて、ビスマルク時代においてはビスマルクが外交の主導権を握っていて、別に誰が帝国外務長官であったかなどは大して重要ではなかったと言う事を裏書きする事だったのです。しかも別段、この時代、ビスマルクが帝国外務長官を兼ねていたと言う訳でもありませんでした。
帝国外務長官のポストが設定されたのは、1870年、まだ北ドイツ連邦の頃に、ヘルマン・フォン・ティーレなるプロイセン外務省の人間が任命されたのが始まりでして、それから20年間、最後にはヘルベルト・フォン・ビスマルク(ビスマルクの息子)まで都合9人が任命されていました。
結局それは、ビスマルクのパシリか代理人程度の意味合いしか持っておらず、ある意味では依然としてプロイセン外務省の存在が重要視されていた時代だったと言う事が言えるでしょう。それならば、帝国外務省の存在価値って何なのでしょうかと言う疑問が尽きないのです。帝国を代表するプロイセンが、よしんばそれが当たり障りのない物だとしても帝国と別個の外交などできるはずもないし、必要もないのではなかったではないでしょうか。


長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^


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