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武家社会における名前と地位の相関性③


皆さんおはようございます。今週は梅雨真っ盛り状態ですな。連日の曇りで、昨夜は強い雨が降っておりました。

先日は、加藤あいの彼氏に中田浩二と言うサッカー選手がいると言うことを前書きに書きましたが、中田と言うサッカー選手はもう1人いたんですね。中田英寿。通称ヒデというそうですが、自分の場合、ヒデというと、ペナルティの片割れのほうを連想してしまいます。まあ、こちらのほうも、サッカーには縁があったようですが。

まあ、それはさておき、本題行きましょうか。「武家社会における名前と地位の相関性」です。

前回は、徳川将軍家の名前のルールに関して書きました。ただし四代目まででしたので、その続編となります。

五代目の将軍と言えば、「犬公方」こと綱吉ですが、ここで、「家」ないぞーと指摘できるでしょう。

実際のところ、綱吉はもともとは家綱の弟に過ぎず、したがって、元来将軍職を継承すると言う前提になく、別家を立てて、それで生涯を全うするはずでした。

もし、彼が幼少でも、家綱の息子として生まれていたならば、始めから「家」が名前についていたでしょう。実際七代将軍家継は幼少で、家宣ははじめ、尾張吉通を養子に取るべきか思案しましたが、実子優先で、御三家からの養子は家継にもしものことがあってからでも遅くはないと言う、新井白石らの意見によって最終的に実子たる家継の将軍職継承が決定しました。

ただし、綱吉が家綱の実子ではないと言うのが「家」の字が付かないと言うのは理由にはなりません。綱吉自身も実子に恵まれませんでしたが、彼自身は長生きで、最終的に甥である甲府綱豊を養子に決定した時に家宣と命名しました。

ですから、本来ならば、綱吉も家綱の後継ぎとして決定した時点で「家」の字を含む名前に改名されるはずだったのです。

室町時代では、将軍がくじ引きで決まったなんて話もあったそうですが、江戸時代では、武家諸法度により、大名家はあらかじめ後継ぎを決めておいて、それを幕府に届け出ることが義務付けられていました。これを怠った場合、後継ぎを出せる状態にあっても、改易になると言うためしもありました。

この場合厄介なのは、若い当主が急死という場合です。なまじ若いから自力で後継ぎを確保できる可能性が高いために、そうした届出は先送りにするのが当然でしょう。

まあ、万が一にと言う意味合いで、弟などを仮の後継ぎにしておくと言うこともできますが、いったん、そういう立場に決められた側としては、当主に実子が誕生しても、その決定にこだわることもありえます。

実際、室町時代で八代将軍の足利義政が最初、弟の義視を後継ぎに決めた後で、正妻の日野富子が義尚を生むと、実子相続にこだわって、(当然、義視のほうでも自分が後継ぎであると決められたから)それが原因となって応仁の乱へと発展しました。

豊臣秀吉も最初は甥の秀次に後を継がせようとしたものの、後から秀頼が生まれたために、実子相続を欲したばかりに、秀次を切腹に追い込んだなんて話もありますし、養子相続と言うものは案外難しい物であることを物語っています。

要するに、家綱にの場合、実子相続が望めないばかりに後継ぎ決定が先送りになってしまううちに臨終の時を迎えたと言うことです。

厳密には、家綱の死の直前になって、ようやく綱吉の後継ぎの承認が下りたのですが、そんな状態では「家」の字の付いた名前を新たに与える余裕はなかったのでしょう、と推測するしかありません。


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