板倉重昌父は京都所司代を務めた板倉勝重で、重昌はその次男でして、元々は別途に旗本として知行を得ていたのが、父の死去に伴って家督を相続した兄重宗からの分知によってかろうじて大名になれる禄高を獲得しました。
1637年の島原の乱において征討使に任命されましたが、一揆勢の力は意外と強く、しかも、少禄の身の上で、九州の諸大名は大して従ってくれず、幕府は改めて老中の松平信綱を新たな大将として派遣した所、その事で焦った重昌は翌年の元日に総攻撃を行った物の、諸大名との連携の取れないままでの戦いとなった事で、攻撃は失敗、重昌自身も討ち死にしてしまいました。
井伊直弼父たる井伊直中の十五男と言う事でして、同じ部屋住みから将軍にまでなった徳川吉宗に比べて、日の当たる所まで行きつくまでには何倍ものハードルが高い状態にありました。
本来ならば、そうした多数の兄に比べて家督相続へ行きつく事は至難の業でしたが、それらの多数の兄の中で、父の跡を継いで藩主になったのは三男の直亮(なおあき)だけで、それ以外は早死にしないで済んでも、他藩の養子になったり彦根藩の家老になったりで、直弼の藩主への道は意外と開けていたのでした。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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