「浪人対部屋住み」第23回目です。
分家の創出には必然的に庶子の存在が欠かせない物でして、家康の庶子の中から御三家ができ、秀忠の庶子の忠長によって駿河藩ができました。忠長は最終的に改易となりましたが、そうならずに済めば、駿河藩も御三家のような存在として成り立った事でしょう。
それに対して家光の庶子によって創出された甲府家、舘林家の場合は、御三家と言うよりは御三卿のような役割を与えられていたと言うべきでしょうか。後の御三卿のように封地がばらばらと言う事はなく、だからこそ、甲府、舘林と言う、まとまっていると言う事を前提とした家名が与えられていた物の、主は江戸屋敷にとどまる事が出来たと言う点では御三卿と変わらない所がありました。
それらの両家は家格こそ御三家に次ぐ物と位置付けられていたと言う点では御三卿と同じでしたが、江戸住まいに終始できたと言う点では部屋住みと大して変わらず、その点でも御三卿と同じと言っても良いでしょう。最終的には両家から将軍の跡継ぎを輩出できて、その代わり家は消滅して行ったのですが、綱吉以降、子宝に恵まれなかったと言う事にも一因があったのです。家光以前のように子だくさんであれば、甲府、舘林家も維持できたのかも知れません。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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