「浪人対部屋住み」第25回目です。
前回は、松平清武の跡継ぎとして、尾張家からの養子と書きましたが、厳密には尾張藩の分家たる高須藩からの養子でした。
高須藩は、尾張光友の庶子である松平義行に始まる藩であって、本来、その息子として生まれた行高は高須藩を継ぐはずだったのでしたが、おりしも、本家たる尾張藩の方で、藩主綱誠が子だくさんで、そのひとりが養子として送り込まれて、跡継ぎとして収まった事で、跡継ぎになる事が出来ずに、他家へ養子としてでなくなりました。
下衆な事を言うのであれば、本家の方での部屋住み対策のとばっちりを食らって実家を追い出されたと言うのが行高だったと言う事です。その養子先と言うのが、松平清武の舘林藩だったと言う事です。そこで行高は武雅と改名して、舘林藩を継ぐ事となりました。
もっとも、高須藩は最後まで禄高3万石だったのに対して、舘林藩は、清武の元で始まった最初こそは2万4000千石だったのが、後になって5万4000石にまで加増した事を思えば、尾張藩を継ぐ見込みがないのであれば、高須藩にとどまっているよりも、他家たる舘林藩へ養子に出て行った方がましな結果だったと言えましょう。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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