「浪人対部屋住み」第29回目です。
御三家自体が将軍家のスペアのような役割をあてがわれていたように、御三家自身も独自の「御三家」を庶子によって創出する事が出来たのですが、それもまたどれだけ庶子を初期の段階で持つ事が出来たかと言う事が問われる話ともなりました。
将軍家自身からして、後になって来るとよしんば庶子を多数得ても、容易に分家を創出しにくくなっていたように、こちらの方もある種の早い者勝ちの傾向があるようでして、水戸家などは初代の頼房が子だくさんだった事から、都合4家の分家ができました。高松藩のような大藩はともかく、それ以外の分家の場合は最初は水戸家からの分知で領地があてがわれていたのが、後になって幕府が別途領地を与えました。
本家からの分知であれば、後になって跡継ぎが絶えたとしても、そうした分家の領地は本家に戻される場合が多かったのに対して、幕府が領地を与えた以上は、跡継ぎを絶やしたならば、その領地は幕府に返還しなくてはならず、現に尾張藩の分家の中には梁川藩のように断絶した事でその領地は幕府に返還された物ですが、水戸家の分家の場合は、本家の水戸藩共々「水戸一族」の中で、独自に跡継ぎを用意する事が出来なかった藩に対して養子を融通し合って何とか幕末まで、全ての家を頼房の血統で維持したのでした。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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