特攻を超える戦死率75%…その戦場を生き抜いた搭乗員は何を見たか 1942年6月のミッドウェー海戦での敗戦により、日米の形勢が逆転して以降、日本軍の拠点は次々と米軍に奪われていった。この猛攻をぎりぎりのところでくい止めていたのは、ソロモン諸島に展開する海軍航空部隊の搭乗員たちだった。
【写真】敵艦に突入する零戦を捉えた超貴重な1枚…!
この劣勢を逆転するため、1943年6月16日に決行され、のちに「ルンガ航空戦」と名付けられた総攻撃では、手痛い敗北を喫し、多くの腕のいいベテランパイロットを失う。
この一連の戦いを担った部隊は、のちに編成された特攻専門部隊よりはるかに多くの搭乗員が犠牲となった。彼らはそのなかで、何を見て、どう戦っていたのか?
<【前編】【太平洋戦争】劣勢を逆転するための総攻撃で、27歳の零戦隊長が提案した「まさかの作戦」>に引き続き、「ルンガ航空戦」の激戦について語る。
ついに出撃し…
午前10時、ブイン基地出撃。
五八二空庶務主任だった守屋清さん(当時主計中尉)は、大作戦に興奮を抑えられず、早朝から愛用のカメラ・セミプリンス(藤本写真工業製の蛇腹式スプリングカメラ)を手に、ブインの飛行場に出ていた。
守屋さんが見ている前で、進藤少佐機が滑走路の中央に出た。進藤機は、両翼に長銃身の20ミリ機銃、二号銃三型を装備した新型の零戦二二型甲である。機番号は173、濃緑色の機体の後部胴体に描かれた、「く」の字二本の黄色い指揮官標識が鮮やかに印象に残った。
進藤少佐は、風防を開けたまま、司令官以下の見送りに軽く敬礼すると、白いマフラーを風になびかせて轟然と離陸滑走にうつった。
「同じ航空隊でも、零戦の搭乗員は整備員や主計科とは明らかに違う別格の存在感をもっていて、主計中尉ごときが気安く話しかけることのできないような雰囲気があった。威張っていたわけではなく、ただ、近寄りがたい殺気をみなぎらせていたんです。飛行隊長の進藤少佐にいたっては、雲の上の存在でした。私は憧れのスターを仰ぎ見るような気持ちで、離陸滑走に入った進藤機にカメラを向け、シャッターを切りました」(守屋さん)
進藤少佐直率の五八二空16機、宮野善治郎大尉率いる二〇四空24機、香下孝中尉率いる二五一空8機の零戦隊に続いて、各機250キロ爆弾1発と60キロ爆弾2発をかかえた江間保大尉率いる五八二空の九九艦爆24機も離陸。ブカ基地から飛来した大野竹好中尉が率いる二五一空の零戦22機とブイン上空で合同し、合計94機の大編隊は、ガダルカナル島を目指して南東方向に向かって飛んでいった。
大東亜戦争の中でも昭和18年のソロモン諸島の戦いは、重巡洋艦以上の大型艦が撃沈されなかった戦いではありますが、それにも優る大きな損害を被った時期でもありました。この記事で取り上げられた戦いは、そうした状態を示した一例であります。
前年の、南太平洋海戦では敵空母「ホーネット」を撃沈し、「エンタープライズ」を大破させると言う、船に限って言えば勝ちいくさではありましたが、それでもガダルカナル島の戦いの中における究極の勝利には結び付ける事ができませんでした。この海戦でも航空機や搭乗員での犠牲が多く、むしろアメリカの方でこそ、日本の空母艦隊の進撃を阻止できた戦いとして位置付けられるべき物だったのです。
実際、この後我が軍は久しく、基地航空隊だけで戦う事を余儀なくされてしまい、その一方でアメリカ軍はますます基地航空隊だけでも優勢になって行き、しかも、その陰では空母艦隊の再建がかない、11月にはギルバード諸島攻略において圧倒的な威力を発揮したのでした。
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