「役職・身分の掛け持ちと転籍」第196回目です。
南方軍総司令官としてのケッセルリングにとって、陸の戦いは元来ロンメル任せであっても良かったのですが、1943年5月になって北アフリカで完敗すると、そうも行かなくなり、7月に始まったシチリア島の戦いを経て、9月にはイタリア王国降伏に伴い、イタリア側が中心と言う建前も崩壊し、彼によってイタリア防衛の戦いが主導されなくてはならなくなりました。
7月には、元来彼が指揮していた第2航空艦隊司令官の地位も、東部戦線から異動して来たリヒトホーフェンに取って代わって一旦はケッセルリングの掛け持ちは解消された物の、11月には、彼はC軍集団司令官に就任し、かつ、これまでの南方軍は南西軍と改められ、依然総司令官としてケッセルリングが就いていました。
多分にイタリア方面での戦いはケッセルリング任せと言う思惑が大本営でも認知されていたのでしょう。ゲーリングも、ケッセルリングと言う空軍元帥が総司令官であってくれれば、第2航空艦隊がC軍集団の意向に従って運用される事を容認したのです。
また、このC軍集団の指揮下の軍として、フランスに接する部分において1944年7月以降リグリア軍が存在していて、その司令官として社会共和国の国防大臣であったグラツィアーニが就任していました。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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