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使い勝手の良くない高額通貨

現在の価値で約120万円の値打ちがあった江戸時代の大判とは?


大型のスマートフォンほどの大きさがあった江戸時代の貨幣大判。その保管にはある理由から美術品と同等の厳重さが求められた。

「裏の畑でポチが鳴く」で始まる童謡がある。愛犬にうながされて掘ってみると「大判や小判」が出てくる。“花咲かじいさん”などと呼ばれている昔ばなしをベースにつくられており、子どもの頃に歌ったことがあるという人も多いことだろう。

 ところで、小判はわかるが、大判って何? と思われるかもしれない。実は、大判は小判同様に江戸時代の通貨であった。小判よりも大きな金を叩き延ばして作られた金貨であったので、大判と呼ばれるようになったという。

 この大判は、安土桃山時代からあった通貨だが、形や形式などが一定していなかった。天正16年(1588)に豊臣秀吉が彫金業者・後藤徳乗(ごとうとくじょう)に命じて俗にいう小判型の大判をつくらせた。この時につくられたもの縦が約15cm、横が約10cmで、大きめのスマートフォンぐらい大きさがあり、一般に天正大判とよばれている。

 大判をつくった後藤徳乗は、京都生まれの彫金業者で、織田信長、豊臣秀吉に仕え、判金改めと金銀を計る際に使用する分銅をつくる分銅役という役職を任されていた。いわば金貨に関する役目を一手に引き受けていたことなる。

 やがて、豊臣秀吉が慶長3年(1598)8月18日に病を得て亡くなり、慶長5年の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康の天下がやって来た。家康は、それまでの事柄を全面的に否定するのではなく、よいところはどんどん自分の政策に取り入れていった。大判の製作もその一つといっていいだろう。ただし、大判や小判の製造責任者は後藤徳乗ではなく、その弟子である後藤庄三郎光次(ごとうしょうざぶろうみつつぐ)が家康の要請に従って京都から東へと下っていったのである。そして、後藤家は代々現在の日本銀行本店のある場所で大判や小判などの製造に携わった。

 ところで、大判1枚の価値はどれぐらいだったのだろうか、スマートフォン大の大きさは伊達ではない。大判の表面には拾両(10両)と書かれている通り、1枚で小判10枚分つまり、10両の価値があるとされていた。1両が12万円ほどだとすると大判1枚は120万円となる。江戸時代も時代が下るにつれて大判の価値が下がり、7両2分しかなくなってしまったという。

 さて、墨で額面が書かれていると書いたが、その下には花押と呼ばれるサインが据えられていた。サインの主は、後藤光次。つまり、大判や小判を製造する責任者である。この花押がかすれていたり、消えてしまったりすると、通貨としての価値がなくなってしまうのだ。万が一そういった事態になった場合には金座の後藤家へ行き、手数料を払って新たに書いてもらわなくてはならなかった。その手数料は時代によって異なるが古くは4000文つまり、1両になることもあったという。もらった大判の1割を書き換え料に持っていかれるのだからたまらない。綿に包んでさらに絹布でくるみ貴重品並みの扱いであったという。こうしたでも大判は通貨というよりも、幕府が朝廷や公家との付き合いや、褒美などとして使用する儀礼用のものだったから、問題はなかったようだ。

 限られた用途でしか使用されなかったから、江戸時代の庶民たちは、一生大判を見る機会はなかったのである。だから私たちが「大判ってなんのこと?」と思っても無理はないのだ。

加唐 亜紀



学研発行の歴史群像シリーズの中では、どこかの大名が所有する金の頭数として「枚」が使用されていた記述があったのですが、それは1両を意味するではなく、10両で1枚と言う風に勘定する物でした。すなわち、大判1枚の事を意味していたという事です。
よって小判1枚を1両とするのは、大判が基準になっていた訳ですが、やはり小判ですら、一般庶民にとっては高根の花みたいな所があったとすれば、大判などはなおの事でして、大判が流通した初期ですら、その用法は大口取引か贈答品としての役割しかなく、小判ですら時を経るごとに金の含有量が少なくなっていった事からすれば、特定の者によって退蔵されて行ったとしても不思議ではありますまい。
そうでなくても、表面に記載されていた花押がすり減って行くと大判としての価値がなくなってしまうので、1両払って新たに書いてもらうと言うのでは、使い勝手が悪いですね。小判ですら、俗に切り餅と称された包金と言うやり方で金の目減りをなくして行こうと言う発想があった訳でして、大判に至っては推して知るべし話ですね。


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