「三国志」の時代に、一騎打ちは本当にあったのか?300回以上も描かれる『三国志演義』の一騎打ち
「われこそ、燕人(えんひと)張飛(ちょうひ)なり!」
「これは願うてもない好敵。いざ!」
名乗りをあげ、互いの得物を激しくぶつけ合う。好敵手同士になると、百合(ひゃくごう)、二百合と打ち合っても、勝負がつかない。両軍兵士はその凄まじい戦ぶりを、ただ固唾をのんで見守るばかり……。
このような「一騎打ち」の場面が、小説『三国志演義』には幾度も出てくる。その数、実に300回以上である。それだけでなく、物語序盤では、呂布(りょふ)や華雄(かゆう)といった、たった一騎の猛将の活躍で空気が変わり、戦争の勝敗をも決めてしまうような場面もある。
いかにも小説ならではの描写だが、たとえば張飛対馬超(ばちょう)、関羽(かんう)対黄忠(こうちゅう)、趙雲(ちょううん)対文醜(ぶんしゅう)などの名勝負も数多くあって、「一騎打ち」は作中の華のような様相を呈す。
しかし、実際の戦場で、本当にこのような「一騎打ち」は、行なわれたのだろうか。
結論をいってしまえば、『三国志演義』における一騎打ちは、そのほとんどがフィクションだ。戦いの一局面において、武将たちの「武」や「勇」が発揮される場面は多々あれど、それだけで勝敗に直結したり、ましてや大将同士が一対一で打ち合うようなことは皆無といえた。少々残念な気もするが、三国志の物語は現実の出来事なのである。
ただ、まるっきりすべてが虚構だったわけではない。ほんの数える程度だが、「一騎打ち」と呼べる描写は史書にも存在する。
『正史』における正真正銘の「一騎打ち」三番
最初に見られるのが192年に行なわれた、呂布と郭汜(かくし)の一騎打ち。長安で郭汜の軍勢に立ち向かった呂布が、「軍勢を遠ざけ、一対一で勝負をつけよう」と呼ばわったところ、これに郭汜が応じた。
戦いの細微な描写はないが、呂布の矛の一撃を受け、郭汜が危うくなったと見るや、部下たちが馬で駆けつけて助け起こした(呂布伝『英雄記』より)。あっけなく一騎打ちには勝利した呂布だが、戦争には敗北し、郭汜軍に長安から追い出されてしまった。一騎打ちには勝利したが、郭汜にトドメはさせず、戦局を変えるには至らなかったようだ。
そして195年には揚州にて、孫策(そんさく)と太史慈(たいしじ)が互いに単騎で偵察中に出くわすというレアケースが発生。一騎打ちを行なった。二人は正面から渡りあい、そのうちに孫策が太史慈の馬を突き刺し、うなじに巻いていた手戟(しゅげき)を掴み取ったが、同時に太史慈も孫策の兜を奪っていた。そのとき、両軍の騎兵が殺到したので二人は分かれ、そのまま去ったという(『太史慈伝』)。
次に関羽と顔良(がんりょう)。正史『関羽伝』によると、関羽は顔良の軍勢に馬に鞭打って駆け入り、大軍の真っただ中で顔良を刺し殺し、首を切り取って戻ってきた、とある。厳密にいえば一騎打ちではないが「諸将のうちで関羽の相手になれるものはいなかった」とあり、単純な一騎打ちよりも、その武勇の凄さが際立っている。
このように、正史には数える程度しか一騎打ちは見られない。やはり相当なレアケースだったようである。今回挙げた3つのうち、孫策と太史慈、関羽対顔良は、『三国志演義』でも屈指の見せ場である。そうした限られた描写をもとに、数多くの名場面へと昇華させた『三国志演義』は、やはり見事な読み物というべきだろう。
(次回に続く)
演義においては劉備を主人公としている所から、劉備の活躍を持ち上げる傾向が多いですね。元がしょぼい兵力で始めなくてはならなかった物だから、普通に戦う場面だけに終始しよう物ならば、おのずから小規模のいくさしか取り上げる事が出来ずに、そんな有様でどうやって目立たせる事ができるでしょうか。
少数しか兵力を持っていなくても、一騎打ちを持ち出せば、ある種の一打逆転が可能と言う物でして、すなわち、少数兵力しか持ってないと言う状態を度外視して目立たせる事ができると言う物です。
董卓打倒の時の諸侯連合軍の一員として参加した際は、劉備の立場はは公孫瓚軍の中の一部隊でしかなく、普通に考えればますます目立たなくなってしまいます。そうした目立たない状態を覆したのが、華雄相手の関羽の一騎打ちであり、呂布相手の張飛しかりですね。
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