「ドイツの「親補職」」第5回目です。
我が国でならば陸海軍の大臣は軍人限定の役職とされてはいた物の、曲がりなりにも大臣の端くれとして文官としての親任官の扱いでした。そして親補職の条件として、中将以上の者だけが就けると言う事が、こうした文官にも影響したと言って良く、軍人で大臣その他の親任官に就く者は中将以上と言う事が決まっていました。まあ、総理大臣のように大将限定と言う物もありましたが、基本的な所、すなわち大多数の親任官は中将でも就けたのでした。
それに対してプロイセンでは、別段そのような決まりがあった訳ではなく、より低い階級だろうともその人物を任命したければ、お構いなしに軍事大臣に任命していました。実際、1810年にカール・ゲオルク・アルブレヒト・エルンスト・ハーケの場合は、大佐の階級で軍事大臣に就任しました。
そして彼の後任たるヘルマン・フォン・ボイエンは少将の階級で軍事大臣に就任し、在任中に中将に昇進しました。そしてそれ以降はおおむね軍事大臣のなり手は中将以上と言う事が定着して行きました。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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