「ドイツの「親補職」」第6回目です。
プロイセン軍の中に存在していた役職のひとつとして Oberkommandierender in den Marken と言う物がありました。Marken とありますから、それはマルクの複数形と言う事でして、それはベルリンを中心する区域を示していました。実際、この役職にあった者は、大抵の場合、Gouverneur von Berlin すなわち、ベルリン知事を兼ねていました。
その役目としては我が国風で言えば、東京防禦総督あるいは関東戒厳司令官のような物だったと言うべきでしょう。そこであえてその役職を、ベルリン防禦総督と訳す事にする訳ですが、その役職が成立したのは1848年革命のさなかの9月13日でして、革命の争乱から宮城や首都の安泰を保持する事が役目とされていました。ベルリンには近衛軍団と第3軍団が存在していたので、その役目のためには防禦総督はそれらの軍団を使用する事が可能とされていました。
我が国でも、東京防禦総督ないし、その後継役職に関しては近衛師団や第1師団に関して統率権があった訳ではなく、あくまで首都警備のための指揮権があったのに過ぎないのであって、それらの師団が出征しよう物ならば、別途編成された留守師団がそれに取って代わっていました。ドイツの場合でも同様の事が言えたのでした。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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