乗り気じゃなかった? 日本艦隊ヨーロッパ派遣の残響 クレタ島の慰霊碑が物語る世界の評価100年以上前の日本艦隊の地中海派遣 第1次世界大戦で日本の参戦は限定的でした。しかし、実際にどのようにかかわったかはあまり知られていません。なぜ直接の被害がなかった日本が参戦する道を選んだのか、そのひとつの要因が、当時、日本がイギリスと結んでいた「日英同盟」にありました。この同盟は当時、日本にとって唯一の軍事同盟で、これに基づくイギリスの要請で、軍隊を出動させたのです。
【Uボート攻撃受けた「榊」&第二特務艦隊の旗艦を務めた装甲巡洋艦「出雲」】
中でも注目されるのが地中海で船団護衛任務に就いた第二特務艦隊でしょう。当時、日本から最も離れた場所で活動した第二特務艦隊、遠くヨーロッパまでどのようにして向かったのか、そして彼の地でどんな戦果を挙げたのか振り返ってみます。
そもそも日英同盟は、日露戦争直前の1902(明治35)年に締結されました。当時の中国では列強各国が権益を争っていました。中でもロシアは旧満州(現在の中国東北部)から朝鮮半島に勢力を伸ばし、日本との緊張が高まっていました。
ヨーロッパではドイツに対抗するため英仏露協商、いわゆる三国協商が結ばれ、それが第1次世界大戦の下地ともなりました。イギリスはロシアと同盟関係にある一方、極東ではロシアの勢力を牽制するため日本と軍事同盟を結んだのです。
イギリスからの再三にわたる派兵要請 第1次世界大戦が勃発すると、イギリスは日本に旧陸軍のヨーロッパ派兵と金剛型戦艦の貸し出しを求めてきました。それに対し、日本は遠方のヨーロッパに軍隊を送るのは無茶だとして断ります。
「金剛」は日本がイギリスに発注した当時最新鋭の巡洋戦艦でした。残りの金剛型は日本で建造されましたが、2番艦の「比叡」は開戦直前に竣工したばかりで、3番艦「榛名」と4番艦「霧島」は艤装中でした。虎の子の巡洋戦艦を貸し出すというのも無理な話で、旧海軍も同じくイギリスの要請を断りました。
そこで、ヨーロッパ戦線で手一杯のイギリスは、中国にあるドイツの軍事拠点、青島要塞の攻略について日本に協力を要請します。当時、ドイツは青島に租借地を持っており、街を要塞化するとともに極東艦隊を配備していました。ここを攻略できれば日本にとっても様々な点でメリットが大きいため、こちらについては参戦が決まります。こうして日本はイギリス軍と共に青島攻略に乗り出したのです。
ただ、ドイツ極東艦隊の主力は日本が参戦して間もなく、青島を脱出して帰国の途につきました。しかし、その途中、南米のアルゼンチン沖でイギリス艦隊と交戦。「フォークランド沖海戦」と呼ばれるこの戦いで壊滅しています。
中国に残ったドイツ極東艦隊の一部は、インド洋から東南アジアにかけての広い範囲で連合国の商船を攻撃していたことから、日英の艦隊(日本は第一特務艦隊)がそれを追撃しました。さらに日本はドイツの植民地だったマリアナ諸島やパラオなどの南洋諸島を占領します。これが第1次大戦後に国際連盟の委任統治として、日本の治政下に置かれるきっかけになりました。
今回取り上げるのは「艦隊」であります。当時の帝国海軍の中での「艦隊」はある視点から言えば2通りありまして、指揮官の呼び名が司令長官であるか、司令官であるかと言う点で分かれます。第1艦隊や第2艦隊は前者に当たり、特務艦隊は後者に当たります。すなわち艦隊の指揮官だからと言って必ずしも司令長官であるとは限らず、親補職であるか否かと言う事から決まります。
そもそも特務艦隊は臨時に編成される物だし、その規模も小ぶりと言う事から、第1艦隊や第2艦隊などのような物とは別物と見なされて、その指揮官に関しては親補にするまでもないとして、その呼び名は司令官となってしまいました。
一方ドイツの方は、極東艦隊(Ostasiengeschwader)と言うのは規模が小さく、本国にあるような大洋艦隊(Hochseeflotte)のように Flotte ではなく、Geschwader すなわち、我が軍の感覚で言うのならば戦隊程度の物でした。本国の大洋艦隊では、戦艦数隻からなる集団も Geschwader と呼ばれていました。
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