「イスラム教考察」第18回目です。
イスラム教の中には、ある物と言うべきか、いろいろと言うべきか、彼らなりにこれは譲れない物と言うのが存在しているようです。使者の土葬しかり、ハラールしかりです。
それらはもっぱら自分の心、自分の行動だけで完結できる物とは限らず、大かれ少かれ他人の協力を仰ぐと言うか、他人を巻き込む事が必要になって来る物もあります。それがあるのであれば、イスラムまみれな社会から出て来るべ気ではないはずなのですが、そうした環境では暮らせないとばかりに、悪びれず、非回的な社会の中に居ついては、そうした自身にとっての「譲れない」物を強調する事があります。
彼らにとって、そうした「譲れない」と言うのは、イスラム教のせいにする事に終始して、自分が悪いんじゃないと言う風に逃れてはいないでしょうか。そして、欧米や日本と言った先進国に居つくのも、そうした先進国であれば人権意識が比較的高いだろうと高をくくって、そうした国ならば譲ってくれるだろうと高をくくってはないでしょうか。
裏を返せば、イスラムまみれな元の国では比較的は人権意識が低く、宗教上の「譲れない」が頻繁にぶつかり合って、それで暮らしにくい社会をおのずから作っているのではないでしょうか。
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