「ドイツの「親補職」」第10回目です。
普仏戦争では、プロイセンを旗頭とするドイツ連合軍は始めから序数を有する軍を3つ編成して戦いに臨みましたが、その後になっても、そのほとんどは既存の軍からの抽出で兵力を賄ったとは言え、新たに2個軍の編成が行われました。まずは翌月19日のマース軍と、翌年1月12日の南方軍です。
既に指摘した通りでして、第3軍司令官フリードリヒ・ヴィルヘルムより年少の司令官を新にに用意できたならば、それらは第4軍、第5軍と称する事が出来たでしょうが、そもそも普仏戦争時開戦時ですら、王太子のフリードリヒ・ヴィルヘルムは38歳でして、それより年少の司令官を用意するなどは無理難題でした。
果たして、8月に新設されたマース軍司令官に就任したのは、ザクセン王太子アルベルトで、1828年生まれ。フリードリヒ・カールと同い年でした。さらに翌年に新設された南方軍司令官の方はエドヴィン・フォン・マントイフェルで、こちらは1809年生まれで、南方軍編成の時点で満61歳でした。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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