日本海軍「連合艦隊」司令長官とはどのような存在でどれほどの影響力をもったのか?戦時下において、日本は世界三大海軍国と呼ばれ、その中心となったのが「日本海軍 連合艦隊」であった。その総指揮をとる、束ねたのが、司令長官である。日本海軍をつくった男、武士道を貫き世界と戦った男、世界最強のバルチック艦隊を撃退した男、 真珠湾攻撃でアメリカを震え上がらせた男など、さまざまな歩みを見せた歴代司令長官たち。はたして「司令長官」とはいかなる存在であったのか?
■若い将校たちの憧れの的・連合艦隊司令長官の歴史
日清戦争と日露戦争の際に臨時編成された連合艦隊は、大正11年(1922)以降は常設艦隊となり、日本海軍を象徴する存在になった。その連合艦隊の最初の艦隊決戦は、明治27年(1894)に始まった日清戦争で常備艦隊と西海艦隊(警備艦隊を改称)が連携して清国の北洋水師(ほくようすいし)と戦った黄海(こうかい)海戦であった。この初の艦隊決戦で勝利を手にした指揮官は、連合艦隊司令長官を兼任した常備艦隊司令長官の伊東祐亨(いとうすけゆき)中将(後に元帥・大将)である。
日清戦争が終結すると連合艦隊は解散し、次に編成されたのは日露戦争が始まる直前の明治36年12月28日だった。このときは同日付で常備艦隊を改編して新たに第1艦隊と第2艦隊、第3艦隊が編成され、第1と第2艦隊を合わせて連合艦隊とし、第1艦隊司令長官の東郷平八郎(とうごうへいはちろう)中将が司令長官を兼任した。この日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅したことで、連合艦隊は内外にその名を広め、不動の地位を築いた。しかし日露戦争が終結すると、連合艦隊は再び解散された。
連合艦隊司令長官は海軍大臣、軍令部長(軍令部総長)と並び称され、俗に「海軍3長官」とも呼ばれていた。制度上、連合艦隊司令長官は大将または中将の階級にある者で、天皇から直接任命される親補職である。3つのポストとも絶大な権限を持っていたが、若い将校たちの間では連合艦隊司令長官は憧れの的であった。
昭和14年(1939)8月30日に山本五十六(やまもといそろく)中将は海軍次官から連合艦隊司令長官に転じた。このとき山本は旗艦「長門」に着任したとき、 副官に向かって「おい、長官というのはいいね。モテるね」とまんざらでもなかったという。
山本中将は長官在任中の昭和15年11月に大将に昇進し、連合艦隊司令長官のポストで太平洋戦争に臨んだ。 そして昭和18年4月18日に戦死するまでの在任期間は3年8ヵ月にもおよび、連合艦隊創設以来、就任した24名の長官の中ではもっとも長い在任期間となった。
米内光政(よないみつまさ)も中将時代の昭和11年12月1日に横須賀鎮守府司令長官から連合艦隊司令長官に転じているが、この移動を「これが最後のご奉公」 と非常に喜んでいた。しかし米内は中央の政変により広田弘毅(ひろたこうき)内閣が総辞職し、代わった林銑十郎(はやしせんじゅうろう)内閣の海相に擬せられたので、翌昭和12年2月2日、わずか2ヵ月で旗艦を去った。そのとき米内は「最大の名誉の連合艦隊司令長官から、一軍属になるのは実に無念」と悔しがったという。もっとも短い在任期間であった。
米内に代わって長官の席に就いたのは永野修身大将である。在任期間は昭和12年末までの約10ヵ月間だったが、その後、軍事参議官を経て昭和16年4月に軍令部総長に就任している。70余年にわたる日本海軍の歴史で海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官の3つのポストを経験したのは永野大将ただひとりだった。(以下略)
多分、連合艦隊司令長官こそが帝国海軍一の知名度のある役職として、若い海軍軍人は言うに及ばず、銃後の子供たちにとってもあこがれの役職である事は言を俟たないのでしょうが、その実態が、大抵の場合は戦時や演習時において臨時に編成される物でして、第1艦隊司令長官の次いでで務める物だと言うのがある種の残念な役職であります。
まあ、それでも一旦編成されてしまえば、帝国海軍の戦力のほとんどを指揮でき役職と言う事で、そのインパクトは半端ない物がある事は否定できませんね。
その実態が第1艦隊司令長官の次いでであったからこそ、大東亜戦争においても、かなり長い間、連合艦隊の役目と言う物が、その延長線上であったからこそ、実際はもはやそのようなものからかけ離れて行ったのにもかかわらず、戦艦に連合艦隊旗艦を定めて、そこに司令部を置いて指揮を執っていたのでした。
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