「浪人対部屋住み」第38回目です。
関が原合戦にも東軍側で参戦した細川忠興は、最初、小倉に封じられ、後には熊本へ移封されました。それと同じころに彼は隠居して、家督は三男の忠利に譲った上で、八代城を中心に9万5000石の隠居領を獲得しました。
本来ならば隠居領と言うのは、既に家督は息子に譲っている状態ですから、それに関しては相続と言う概念などなく、忠興が死んでしまえば、隠居領は忠利に返還すると言うのが筋ではありましたが、忠興は、八代に四男の立孝を同道させており、行く行くは自身が死亡した後で、八代を立孝に継がせて、正式の支藩として成立させてやろうと言う思惑があったのですが、それより先に立孝は死んでしまい、また、忠興の方も死んでしまった事で、隠居領の処分は忠利で決定され、立孝の息子であった行孝がその内の宇土3万石を継承する事で、正式に支藩が形成される事となりました。
ちなみに、本家の熊本藩の方は血統が絶えてしまい、その後を、現代にいたるまで支藩たる宇土藩主の血統がその後を継承して行きました。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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