FC2ブログ

プロフィール

DUCE

Author:DUCE
趣味:緑地や山のほうへのハイキング
映画、ドラマ:戦争映画や時代劇が中心。アイドルやトレンディドラマの類は興味なし
外国関連:中国、韓国、北朝鮮と言った反日三馬鹿国は嫌いです。

竹島はわれらが領地なり

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

キター!

キター

plugin by F.B

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

武家社会における名前と地位の相関性⑤


今日は珍しく朝から曇っており、この分では、日中はくもりのままでしょう。まあ、今日は勤務日なので、格別晴れてくれてもメリットはないので、却ってこの方が楽ですね。

さて、本題に入りましょう。前回は徳川吉宗が将軍になったところまででしたね。

吉宗はもともと紀伊家の人で、以降、将軍家は紀伊系に取って代わることになります。そこで吉宗は御三家の代わる御三家として御三卿を作ります。

さて、御三家ならずとも、大名の名前といえば、知行地の地名が用いられます。御三家の場合ならば尾張、紀伊、水戸ですね。

一応、御三卿の場合は10万石の格式が与えられましたが、別段普遍的な大名と言うわけではありませんでした。御三卿の名前である、田安、一橋、清水は城の名前にすらなく、江戸城内の門の名前でした。それはこれら御三卿の屋敷が設置された場所であって、実際のところ、御三卿というのは、将軍家の部屋住みに独自の家名を与えた物に過ぎませんでした。

そういう家ならば、ほかの大名のような義務がなく、ただ、屋敷に鎮座するだけの有様でしたから、家臣のほとんどは旗本が子会社に出向するような形で付せられていました。

それゆえに、家名存続は必須ではなく、吉宗の子孫が「余って」いる状態になければ、当主空席の状態にしても差し支えありませんでした。逆に、長男といえども、御三卿から他家へ養子に出たというためしもあったのです。

実際、実子のいない十代家治の養子として家斉を出した一橋家の二代目治済(はるさだ)は初代宗尹(むねただ)の四男でした。

この結果、一橋家は御三卿の中でも特別な存在となり、後に水戸家から慶喜を養子として受け入れる下地となりました。すでに述べたように、御三卿は吉宗の子孫でなければ、他家からの養子は受け入れないことになっていたので、別段、このようなことは必要なかったのですが、慶喜の才能に目をつけた家慶が将来、将軍にしようと言う意図があって、一橋家に迎え入れたのでした。単なる穴埋めとは違っていたのでした。

しかし、慶喜の実父である水戸斉昭といえば、大奥の経費を削減して海防に役立てようと提案したこともあって、すっかり大奥から嫌われていて、そんな奴の息子を将軍にするなどもってのほかと反対にあい、病弱の家定の養子として選ばれたのは、紀伊家の慶福(よしとみ)でした。

慶福改め家茂は慶喜より年少であったために、この時点で慶喜の将軍就任の可能性は絶たれたはずでした。家茂の養子として選ばれたのは田安家の亀之助で、順調に行けば、亀之助が家達(いえさと)と名乗って十五代将軍となるはずでしたが、幕末の非常事態の中、いまだ幼少の状態のまま、家茂が急死したので、急遽慶喜が将軍に就任しました。吉宗のときとほぼ同様だったわけですね。


武家社会における名前と地位の相関性はまだ完結ではありませんよ。

にほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 歴史ブログへにほんブログ村 その他ブログへブログランキング・にほんブログ村へ


とにかくクリックはお願いします。 
<(_ _)>  
スポンサーサイト



<< 真っ赤な嘘つき、ウッソー | ホーム | 三枝の笑ウインドウ⑦ >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 BLOG TOP