FC2ブログ

プロフィール

DUCE

Author:DUCE
趣味:緑地や山のほうへのハイキング
映画、ドラマ:戦争映画や時代劇が中心。アイドルやトレンディドラマの類は興味なし
外国関連:中国、韓国、北朝鮮と言った反日三馬鹿国は嫌いです。

竹島はわれらが領地なり

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

キター!

キター

plugin by F.B

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

武家社会における名前と地位の相関性⑥


江戸時代の歴代将軍の名前には基本的に「家」の字が付くことになっていて、そのために他家からの養子で将軍になったものの中ではもともと別の名前を有していながら、改名した者もいましたが、それに当てはまるものは意外と2名だけでした。

一方、幼名のほうとは言えば、こちらのほうは頻繁に改名するというものではありませんでした。まあ、幼少時のみだけ必要ということを考えれば、当然なのでしょうが、それだけに、歴代将軍の幼少時の立場を判断するのに役立ちます。

徳川家康の幼名が竹千代であったために、後々将軍の嫡男には竹千代と名乗らせることが決まりとなりました。そのせいで、徳川家光が「予は生まれながらの将軍である」と大名たちの前で宣言できたわけです。

しかし、ただいま、天皇家でも、これから天皇の継嗣に事欠く恐れが出ているように、長子相続を貫徹させることは容易ではありませんでした。

家綱こそ、家光の長男として竹千代を名乗ることができましたが、家綱には跡継ぎがなく、末弟である綱吉が相続したことは周知のとおりです。

綱吉自身は徳松が幼名で、将軍就任以前に生まれた息子にも徳松と命名しました。

彼の後を継いだ家宣はもともとは甲府家の生まれで、幼名は虎松。家宣の後を継いだ家継は家宣が将軍になってからの生まれでしたが、家宣の息子は綱吉在世から通しで4人生まれていて、家宣は4男で、鍋松が幼名でした。

家継の後を継いだ吉宗は、もともとは紀伊家においても部屋住みの厄介者でしかなく、最初は家臣の家で育ち、幼名を源六といいました。そして、兄がことごとく早死にしたために、紀伊家を継ぐことができました。後に将軍となる家重は紀伊家を継いだ直後の生まれであったために、長福丸(ながとみまる)と命名されました。これは、藩祖頼宣の幼名からきたものであって、将軍家における竹千代同様、紀伊家の嫡男に与えられる幼名でした。

果たして、次の竹千代は吉宗が将軍となり、家重が西の丸に住む事ができてようやく誕生することができました。それ以前の誕生だったならば、竹千代とは命名されることはなかったでしょう。

十代将軍家治は家重の長男として西の丸で生まれることで竹千代と名乗ることができました。

さて、これにて竹千代の誕生は最後となりました。少なくとも将軍としてはです。これ以降の竹千代はすべて将軍になる以前に死亡してしまったのです。

十一代将軍以降を見ていきましょう。

・家斉は一橋家からの養子で豊千代

・家慶は家斉の次男で敏次郎

・家定は家慶の四男で政之助

・家茂は紀伊家からの養子で菊千代

・慶喜は一橋家からで、幼名は七郎麿

こうしてみると意外と竹千代は少ないですね。家光以降でわずかに3人です。



武家社会における名前と地位の相関性はまだ完結ではありませんよ。とにかくクリックはお願いします。 <(_ _)>  

にほんブログ村 教育ブログへにほんブログ村 歴史ブログへにほんブログ村 その他ブログへブログランキング・にほんブログ村へ


スポンサーサイト



<< 三枝の笑ウインドウ⑧ | ホーム | 保護費トラブルで3職員怪我 >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 BLOG TOP