「ドイツ元帥物語」第116回目です。
1944年の西部戦線では、一旦は9月に罷免されたはずのブラスコヴィッツが12月24日にG軍集団司令官として復帰したものの、それも長続きせず、翌年には早くも、1月29日、負傷から回復した武装SS上級大将のハウサーにとって代えられました。
一方東部戦線では、1944年9月には、当時北ウクライナ軍集団、南ウクライナ軍集団と称していたのが、それぞれA軍集団、南方軍集団と改称されました。半年前は前者の方が南方軍集団と称していた訳ですがねぇ。とは言え、それによって格別人事異動が生じると言う事はなく、ハルペがA軍集団司令官(元の北ウクライナ軍集団司令官)、フリースナーが南方軍集団司令官(元の南ウクライナ軍集団司令官)と言うな変化しかありませんでした。
年が明けて1945年ともなりますと、東部戦線でも大々的な変化がありまして、ソ連軍の中央においての大攻勢が起こり、それによってかなりの人事異動が生じました。それと同時に軍集団の新設と名称の変更も行われました。
まずは直接矢面に立たされた中央軍集団が司令官がラインハルトからシェルナーにとって代えられたのでした。そして、後任の北方軍集団司令官には、第20山岳軍司令官であったレンドュリックが就任しました。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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