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武家社会における名前と地位の相関性⑦


「武家社会における名前と地位の相関性」ようやく完結編へと入ります。偏諱(へんき)とよばれる、主が家臣に対して行われる、自分の名前の一字をとって、名前の命名を行う行為は、室町時代では、幕府は、偏諱を願い出て、謝礼を持ってくる大名に対しては誰にでも行いました。中には、幕府のほうで、送りつけ商法のごとく、偏諱の推奨を行うケースもありました。

これにたいして江戸時代の場合は、大名自体が親藩、譜代、外様と厳格な色づけがなされたように、偏諱の方にも特定の大名家限定のものとなっていきました。

親藩では、御三家、御三卿、福井松平、松江松平、津山松平のみ、外様では禄高で目安として25万石以上の大身の大名と米沢家杉家がそれに当てはまりました(一部例外あり)。

江戸時代は大名家の相続に対して幕府が許認可権を持っていたこともあって、偏諱自体もシステム化されていきました。

大名はあらかじめ後継ぎを幕府に届けておいて承認を得る必要があり、これがないと、後継ぎにたる人物がいても、相続が認められずに、改易になるといったケースもありました。

さて、上記にあげた大名家の場合は、相続のときに幕府から偏諱もうけます。その結果、この名前は、どの時代の人物かということを推測ができるというところが面白いのでいくつかあげてみます。

御三家の初代は尾張、紀伊、水戸の順に、義直、頼宣、頼房と、この時期は偏諱がないのですが、二代目以降となると、光友、光貞、光圀。三代目は綱誠、綱教、綱條となります。

ここで、これらの人物の名前の上の字に注目してください。二代目は「光」。三代目は「綱」となっています。これは、後継ぎとして認知されたときの将軍の名前からきたもので、二代目は家光から、三代目は家綱からのものであることを意味しています。

当然、このように均一にいくと限らず、この家は当主が長生きしているいないを判断できる場合もあります。

七代将軍家継が死亡したときに、御三家から次期将軍かを出そうとしたときの御三家の当主の名前を見ていきましょう。

尾張家から、継友、吉宗、綱條となっています。すでに述べたルールに従えば、継友は家継の時に、吉宗は綱吉の代の折に後継ぎとして認知された人物で、綱條が家綱のときからで、彼が3人の中で1番長生きしていると判断できます。

さて、この偏諱はあくまで後継ぎに対して行われるものであって、その後継ぎが当主にならないままに死亡するということもありえます。

水戸家では、二代目の光圀が兄を差し置いて後を継いだことを気に病んで、高松松平家を建てた兄頼重と交換トレード的な養子縁組で後継ぎを得ます。よしんば水戸家の生まれであっても、他家を相続する場合は、幕府からの偏諱の対象とならず、光圀の実子は松平頼常と名乗って高松松平家を相続し、逆に頼重の息子が幕府から偏諱を受けて綱條として三代目となりますが、実のところ、綱條には兄がいて綱方と名乗っていましたが、早死にであったために、弟が綱條として三代目を継承したわけです。

さて、多くの大名家では、それぞれの家のルールで名前を決めていきます。たとえば、上杉謙信のもともとの家である長尾家では「景」の字がよく使われていました。彼の最大のライバルである信玄の武田家ならば、「信」の字です。ちなみに信玄の後継ぎが例外的に勝頼と「信」の字なしでしたが、これは、もともと諏訪家を継承させることを前提とした名前でした。

ところで、江戸時代ではシステム的に幕府が名前を決めて言った結果、こうしたそれぞれの大名家のルールが適用できない場合もありました。伊達家の例を見てみましょう。伊達家の場合は「宗」の字がよく使われることは周知のとおりだと思います。伊達政宗の父は輝宗。息子は、宇和島藩を立てた秀宗。本家を継承した忠宗。その息子の綱宗と「宗」がそろっていますね。

ですが、三代目綱宗が素行不良を幕府からとがめられて隠居を命じられたところ(いわゆる伊達騒動というやつ)、いまだ家綱の御世であったことから、後を継いだ亀千代に与えられた名前は綱村でした。すでに「綱宗」は使われてしまっていたからですね。

さて、この次の代ですが、いとこが養子として入って相続したわけですが、時は綱吉の御世。本来ならば「吉宗」と名乗っていたかもしれませんが、周知のとおり、「吉宗」は紀伊家に使用されてしまっていたので、実際に与えられた名前は「吉村」でした。となると、この相続は紀伊吉宗に後れをとったと推測ができます。もし、紀伊家で当主の早死にが相次ぐような事態にならなかったならば、「吉宗」は伊達家で用いられていたかもしれませんね。

その、実際に「吉宗」の名前を用いた人物ですが、彼は元はといえば紀伊家の部屋住みでしかなく、御三家の生まれといえども、もともと徳川姓を名乗ることができず、松平頼方と名乗っていました。紀伊家の場合、当主と後継ぎだけが徳川姓と幕府からの偏諱が適用され、それ以外のものは松平姓と、家祖頼宣の「頼」の字が付いた名前が与えられました。そして、当主たる兄の早死にで紀伊家を相続することができるようになって初めて吉宗と名乗ることになったのです。

完結編は大名家に関するものですので、一部しか紹介しません。後はご自身で見つけてみてはいかがでしょうか。新たな発見をすることで、歴史をより味わい深いものとしていくことでしょう。

 

武家社会における名前と地位の相関性はついに完結!  v(^0^)v  次の歴史カテゴリーをご期待ください。クリックはお願いします。 <(_ _)>  

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