「集団的軍事行動」第2回目です。
武家社会においては、多くの大名が自分の領国と言う概念の元に独自の軍事力を組織していたために、出兵の時にはそうした領国を守るための留守番と言う物を置いていました。それは前回も述べたようにある種の自主性と言う物が存在しており、最悪の場合は、留守番が我が身かわいさで、寄せ手の敵に寝返ると言う事もあり得ますが、たいていの場合は、せいぜいが防御力枯渇によって降参と言う程度の物です。
細川忠興は東軍に属する一大名として徳川家康に同道して、決戦場の関が原に向かいます。領国の中心である田辺城は父親である細川幽斉が守っていましたが、西軍の攻撃で降参してしまいました。
幸い、決戦場では東軍の勝利だったために、幽斉の敗北自体はお咎めなしと言う事で、余生を全うしています。
これに対して西軍に属した真田昌幸は上田城の防戦をしのいで、中山道を進撃する徳川秀忠を決戦場に間に合わせなかった功績がありながら、敗者側と言う事で改易となりました。
また、東軍側では京極高次が大津城を9月14日まで持ちこたえ、最終的には敗北した物の、寄せ手を関が原に間に合わせなかった事で、領地加増が認められました。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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同じ基準で歴史を測るべきではなさそうだ
よく言えば、統一基準かも知れないが、そう単純に進んでこなかったのが人類の歴史 たぶん
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