16世紀の末、豊臣秀吉の死亡。この事件は関が原合戦のプロローグとなります。形式上では秀吉の息子である秀頼が主となりますが、いまだ幼少の有様では、そのような実力があるはずもなく、かつて秀吉が織田信忠の遺児三法師を擁して実権を握ったと言うやり方が再現されることになりました。
しかし、秀吉の死後まだ時が経っていない時期、その実力者が誰になるかは定かではなく、そのせいか、その実力者になりうる人物とみなされて石田三成が、彼を嫌う加藤清正ら武将派と呼ばれる大名に狙われる事になりました。
この窮地を逃れるべく、三成が避難先に選んだのが徳川家康でした。表向きの立場からしても、大老筆頭の家康としては豊臣家内部の紛争を鎮めなくてはならないだろうし、家康にその種の野心があるのならば、今、自分を始末してしまっては却って野心に突き進む事が出来なくなるだろうと言う三成の算段があったからです。
案の定家康は、三成を清正たちに引き渡すことなく、生かしておきました。三成を殺してしまっては、豊臣家が安泰になり、内紛の機会を潰してしまうからです。
三国志半ばのハイライトといえば、赤壁の戦いです。この戦いにおいて劉備軍は赤壁から敗走してくるであろう曹操軍をたたくべく、各所で待ち伏せを意図するのですが、その中で孔明は関羽に対しては最初、曹操に対する借りを意識してか、出撃させませんでした。
孔明いわく、関羽を配置すれば、曹操を討ち取る事が出来るかも知れないが、関羽の曹操に対する借りから、見逃すだろうとの事でした。関羽はその借りはすでに返したから心配ないとたって出撃しましたが、案の定、見逃してしまいました。
この件に関して、孔明は表向き、怠慢として関羽を断罪しようとして、劉備の助命嘆願によってしぶしぶ執行猶予にしましたが、実の所は、まだ曹操は孫権に対する牽制役として生かしておいた方が良いと判断していたので、関羽の、曹操に対する負い目を払拭する機会として利用したのです。
第二次世界大戦末期にヒトラー暗殺事件が起こり、幸か不幸か失敗に終わりました。素人にしてみれば、ここでヒトラーが死んでくれれば、そこで戦争が終わったと残念がるところでしょうが、連合国の首脳は意外と、ヒトラーが生きてて良かったとほっとしていました。
要するに彼らはヒトラーの死が終戦に結びつくとは思っていなかったのです。なるほど、ヒトラーを暗殺する側からすれば、迅速な終戦を望んだかも知れませんが、自国の一方的な敗北を認めるよりはもっとましな条件での終戦を望むのが当然と言うわけで、無条件降伏が容易にあり得るとは連合国側では考えていませんでした。
すでに連合国はカイロ宣言により枢軸国に対して無条件降伏を要求していたので、よしんば終戦が早期になろうとも、それよりも緩やかな形で手打ちにしようとは思っていませんでした。第一次世界大戦の終わり方を考えれば、それが正論と言うべきでしょう。
連合国としては、再三のドイツ復活を阻止するためには無条件降伏によって勝利する事を望んでおり、そうなってくると、今のドイツの状態はその時期として尚早でしかなく、迅速にドイツの状況を悪化させるには、やたらと反撃したがり、あるいは現地点の死守を命じたがるヒトラーの存在は却ってありがたいわけで、ここにヒトラーの生存を欲した根拠があるのです。
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 政治・経済
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