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竹島はわれらが領地なり

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徳川親藩伝⑩

「徳川親藩伝」第10回目です。
徳川家光の庶子である、綱重と綱吉はそれぞれ甲府と館林にまとまった状態で15万石(後に25万石に加増)の領地を貰う事になりました。広い意味では親藩大名の創出と言う事になるのですが、それは必ずしも普遍的な親藩大名と言うには当たらず、後に取り上げる、御三卿のような物だと割り切るべきでしょう。
何しろ、結論から言えば、これらの両名はこれまでの松平忠輝や松平忠長のように不行跡で改易と言う事態になった訳ではなく、とりわけ綱吉の場合は周知の通り、将軍に就任と言う、一種の栄転状態に至ったのです。主がそのような状態に至った家がどうして改易になるのでしょうか。しかし、両名の元で始まった甲府藩、館林藩は永続する事がなく、それらの領地には後によその大名家が入封しています。
綱重、綱吉は共に参議の官位をもらっていた事から、俗に両家は甲府宰相家、館林宰相家とも呼ばれる事があります。領地自体は大規模な物がありましたが、それに見合った家臣団が存在していた訳ではなく、領地運営に関しては既存の天領支配の制度の元で成り立っていて、綱重、綱吉共にほとんど江戸の屋敷に居住すると言う、部屋住みと大して変わらない状態にありました。
このような有様で、家臣も少数しかいなかったために、普遍的な大名家として存続させる意図が始めからあったとは考えられず、果たして、綱吉が五代将軍として就任する事態になっても、別段徳川一門から養子を取って館林家を維持しようと言う事がなされる事はなく、領地も家臣も幕府に吸収される形で館林家は終焉を迎えました。
一方、甲府家の方は綱吉よりも早死にした綱重の後を綱豊が継いでいて、弟として松平清武がいました。
清武自身は最初家臣の子供として養育されていたのが、1707年に大名として館林に領地をもらった物の、これは綱吉の館林宰相家とは別の物であって、そのために却って普遍的な親藩大名として存続する事ができるようになりました。

長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^

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