Author:DUCE
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外国関連:中国、韓国、北朝鮮と言った反日三馬鹿国は嫌いです。
前回は、ドイツが両大戦で世界中で戦ったことを取り上げましたが、そうなるには、それなりに大国になっている前提が必要です。現代社会においては、そのように世界中でいくさができるのはアメリカ合衆国くらいになってしまいました。
アメリカは単なる大国ではなく、超大国と言うべきですね。この辺はドイツとは格が違いますね。ドイツの場合はせいぜいヨーロッパの大国であって、もはや世界の何処へでもというわけには行きません。そのせいか、今、ドイツ嫌いなる物があるとすれば、それはフランスのような近隣諸国に限られるでしょう。日本でも、日本嫌いと言えば、中国や韓国、北朝鮮がめだっていますね。
これに対して、アメリカの場合、超大国ゆえに、地球の裏にもアメリカ嫌いという物が存在しています。←もちろん、アメリカは世界の嫌われ者と言っているわけではありませんよ。 まあ、それだけ、何処でもアメリカの影響力が大きいと言うことを示している訳です。
ちなみにわたしは、プロ野球では読売ジャイアンツが嫌いですが、考えてみれば、これもあるものにとってのアメリカ嫌いと共通しているのではないでしょうか。今では巨人の凋落振りが目立つようになって来ていますが、これまでプロ野球は少なからず巨人中心の気が多く、野球帝国主義とでも言わんばかりの巨人中心の有様は非常に不愉快なものでした。巨人のせいで、見たい番組が中止になったり、放送時間が遅くなったりと被害甚大だったのが決定的な巨人嫌いをかもし出したのです。
さて、現代にまで至るほどのドイツのもたらした世界的影響。そこへ至るにはしかるべき条件を有していなければなりませんでした。その転機はといえば、普仏戦争に尽きるのではないでしょうか。
人によっては、このいくさを通じて、ドイツがエルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)を奪ったことで侵略戦争という認識を持っている事でしょう。しかし、後の影響と言う点を考えたら、そんなけち臭い表現だけでは済まされない物でありました。そもそも単なるドイツの侵略戦争というのであれば独仏戦争とでも表現されてしかるべきなのに、普仏戦争となっているのはなぜか。それは、当時まだドイツは未統一の状態であったからです。
この普仏戦争を通じてドイツは統一への最終段階へと達したのです。今回は、普仏戦争がもたらした国際的影響(述べるのは日・英・伊のみだけですが)に関して述べたいと思います。
日本にとっての影響
江戸時代末期に黒船来航によって本格的な欧米諸国との交流がもたらされる事になりましたが、その中でも日本が主に交流していたのは英・米・仏でした。アメリカは別格として、当時ヨーロッパで五大国と言えば英・仏・露・墺・普で、普仏戦争の当事国であるプロイセンは、ヨーロッパの大国の一国でしたが、英・仏からすればまだまだ小物で、もともと五大国の中では末席に位置していた国でした。
後々ドイツは強力な陸軍を有することで有名となりましたが、当時未統一の状態では、当然、低い評価を受けるしかなく、日本としても、一時はナポレオン一世に率いられてヨーロッパの大半を征服したフランスのほうを重く見ていました。
それゆえに、江戸幕府はフランスの教官を招いて、洋式軍隊の編成に着手し、徳川慶喜はナポレオン三世から軍服をもらい、小栗上野介はフランス人の技術者の協力を得て横須賀に造船所など、もともとフランスとの交流は密接だったのです。
こうしたフランスとの交流は明治維新以降も引き継がれましたが、普仏戦争でフランスが敗北すると、日本陸軍の手本が、勝者たるドイツへと鞍替えしたことは周知のことと思います。
イギリスにとっての影響
ヨーロッパ西部の島国であるイギリスにとって、国防にはまず海軍が不可欠でしたが、そのほかに、ヨーロッパに一強ができないようにする政策がありました。そうした発想からすれば、プロイセンがプロイセンにとどまっている間はそれほど恐れる必要はありませんでした。フランスが防壁としての役目を果たしてくれるだろうとの判断からです。普仏戦争のときですら、プロイセンの海軍はフランスに比べて著しく貧弱で、出撃などもってのほかの有様でした。
それが、プロイセンを旗頭としてドイツ統一が成立したことで、本格的に着手するようになるには30年必要でしたが、第一次世界大戦のころには、ドイツ海軍は非常に大規模な物となり、世界第二位にのし上がっていました。ここにイギリスはドイツを、仮想敵視するようになったのです。
イタリアにとっての影響
意外なようですが、イタリアにとっても普仏戦争は非常に大きな影響をもたらしました。1861年、サルデーニャ王国が拡大する形でイタリア王国ができましたが、当時の首都はトリーノにあって、ローマではありませんでした。当時のローマは周辺のかなり広い範囲をローマ教皇領として、独立国家として存在していましたが、このとき、フランス軍が駐屯していました。
普仏戦争のとき、フランスはここの兵力をミューズ川の前線に転用したので、ローマは空きや状態にありました。それでもフランスが勝者であれば、問題なかったのですが、敗北したために、イタリアにしてみれば、進駐しても文句を言われないだろうと判断したのか、教皇領保護の名目で進駐し、併合しました。
「すべての道はローマに通じる」なんて名言がありますが、かの地を押さえることは、イタリアの発展には不可欠だったと言えましょう。しかも、古代ローマ帝国の首都であったこの地を得ることは、イタリアの国際的威信向上にも役立ったとも言えます。まあ、この併合のために、後々長い間バチカン教会との反目が続きましたが。
この事件がイタリアとフランスとの格差を著しく縮めたことは確実だと思います。第一次世界大戦後、ドイツとロシアが国際社会から村八分の状態にあったとき、イタリアは五大国の一国となり、ワシントン海軍軍縮条約では英米の3分の1の枠を獲得しました。
この比率はフランスと同じです。フランスにとっては、いかに太平洋が世界一広い大洋だからと言っても、極東だけに目を向けていれば良い日本に比べてそれは半分あまりでしかなく、地中海だけに目を向けていれば良いイタリアと同じ分しか認められなかったと言うことなのです。
フランスはアフリカにたくさん植民地を有し、極東にも植民地を有していたにもかかわらずです。この例をとって見ても、イタリアに対してもフランスが凋落していたことを物語っていると言えるのではないでしょうか。
次回は普仏戦争そのものを取り上げてみようと思います。乞うご期待。(^0^)/^^^^^
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阿麗☆さんへ
普通歴史講釈なんてものは古い時代から新しい時代と言う風に行うものですが、ここでは逆に新しい時代から古い時代へとさかのぼる手段にします。
乞うご期待!ヾ(〃^∇^)ノ
やっぱり歴史は色々ありますね。
当然ですが・・・
刀舟さんへ
なにぶんドイツは日本と違って、地続きで、しかもヨーロッパの中央にありますから、よそ様への影響は大きいのですよ。
このシリーズはまだまだ続きがありますので、乞うご期待!
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