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竹島はわれらが領地なり

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絶倫ロボに見る男女の性差28

「絶倫ロボに見る男女の性差」第28回目です。
徳川将軍の庶子の処遇に関しては、家康も晩年に入って御三家を創出すると言う風に、新たな家を創出すると言う傾向が多いように見受けます。ただ、保科正之に関しては例外でありました。これは、前回も取り上げたようにお江が悋気が強かったと言う事が影響していて、秀忠の方も堂々と我が子として認知する事を憚った事に一因がありました。その存在をひそかなる物とするために、武田信玄の娘である見性院に託し、その縁で武田旧臣の大名保科正光の養子となって、その後を継ぎました。それは、既存の家を継承する物で、しかも当時は親藩の範疇にも入れられませんでした。
それに対して、忠長の方はお江が溺愛していて、家光よりも彼の方にこそ将軍の地位を与えたかったほどでしたから、こちらの方は堂々と、新しい家の創出となりました。与えられた領地は駿河国を中心に55万石でして、それは御三家にも拮抗する物でして、後に改易と言う事態にさえならなければ、その家もまた御三家の範疇に入っていたのかも知れません。
俗に言う御三家も御三卿も、語呂が良いと言うだけでして、必ずしも3つの家でと言う事はなかったのかも知れません。それはあくまで結果でしかなく、ことによったら2つの家しかできなかったか、逆に4つの家を創出しても良かったのではないでしょうか。家光の庶子によって創出された家だって甲府と舘林と2つだったし、吉宗の元で創出された御三卿も、3つ目たる清水家は、家重の庶子によって創出された物でして、吉宗の代に限っては2つでとどまっていたのです。
さて、忠長は元来御三家に拮抗する堂々たる大名として存在できたはずですが、一説によれば、大坂城と100万石の地行を要求したなんて話もある訳ですが、いくら将軍の近親者だからと言って、もはやそれ以上の知行を与える余裕などないでしょう。よしんばそのような事を認めたならば、後の代になって同様な要求をする庶子が出て来る事も考えられます。
果たして、家光の庶子たる綱重、綱吉に対してはそれぞれ25万石の大名とする事を認めた物の、それは普遍的な大名と言うのには当たらず、後の御三卿のような物と言って良いでしょう。実際、綱重と、後の家宣として将軍となった綱豊は一度も甲府へ行ったことはなく、綱吉にしても、ほとんど江戸在住で舘林へはごくわずかしか行っておらず、恒久的な大名家の創出と言うよりは、余った将軍の子供の暫定的な処遇だと言う風に考えるべきでしょう。
現に、後に甲府、舘林両家とも将軍の後継ぎを供出されられた事で消滅し、家臣は幕臣へと復帰するのでした。この辺の所は改易を強いられた事もあるのでしょうが、忠長の家臣は浪人となった事とは意味合いが違います。まあ、主が将軍と言う栄転をした以上、その家臣が浪人にならなくてはならない筋合いはありませんからね。

長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^

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