「絶倫ロボに見る男女の性差」第34回目です。
田安斉匡の「斉」が示すように、慶之丞の田安家への養子縁組は治察死亡後の末期相続と言う事であります。治察存命中の養子縁組であれば、将軍世子として賢丸を送り出すための身代わりと言う前提で行われる可能性だってあったでしょう。いくら田安家を一橋家の血統の下に収める事が出来たしても、治済としては将軍家そのものを収める事ができないのであれば意味がないのです。ただでさえ御三卿は将軍家の部屋住みでしかなく、それそのものに関しては大して価値がないと言っても良いのです。将軍家を収める事こそ第一義であって、田安家なんぞは二の次でして、豊千代が将軍になってからでも遅くはなかったと言う事なのです。
さて、田安斉匡自身も子だくさんの人間でして、本来ならば、将軍家の意向の下にそうした多数の子女の養子あるいは嫁として送り出す事が求められていたのですが、いかんせん兄たる家斉がその上を行く子だくさんだったために、そちらの方こそ最優先視される状態だったために、斉匡のほうは後回しになって行きました。そのために、とりわけ女(むすめ)が有り余っていた状態にあったのが、売れ残り状態に近い状態へとなって行ったのです。
この時期の嫁入りは今に比べて早い物でして10代で決着が付くと言うのが当たり前でしたのですが、上記のようなありさまゆえに、遅れに遅れて20代でと言う事が目白押しだったのでした。
一方の家斉は将軍ゆえに最優先で子女の縁組が推進された訳ですが、当然、そこにはいろいろな悲喜劇があった事は否めませんでした。幕府の側としても、将軍の子女を送り出してしまえば、そうした家に対してはおいそれと邪険にできない訳ですから、受け入れる大名の側としても、幕府のそうした態度ゆえに、養子や姫をありがたがる、少なくともありがたがるふりをする物でした。
さて、送り出すのが将軍の子女ともなれば、本来ならば、送り出す先はどこでも良いと言うはずもなく、それなりに良い所でなくてはならないはずでして、まずは御三家のような所に食指が行く物でして、小藩などは決して選んではいけないはずなのでしたが、家斉があまりに子だくさんな状態では、必ずしもこれまでのように、そのようにこだわってばかりもいられないのでした。果たして本来ならば見向きもしないで置くべき小藩にすらも養子先の矛先が向いたのでした。
長くなったので、続きは次回といたします。(^0^)/^^^^^
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