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独・伊・仏の文化と歴史・歴史編③

普仏戦争と言えば、小学生か中学生の時の国語で「最後の授業」が題材として授業が行われました。そこでは、主人公がこれまで勉強に対して熱心でなかったのが、これからはドイツ語を習わなくてはならなくなる。今日がフランス語最後の授業と言う先生の言葉に動かされて熱心に授業にいそしむ場面が思い出されます。


そこは、エルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)と言うところで、普仏戦争以降ドイツ領となります。まあ、この例を見ただけでドイツの侵略戦争と見る向きもありますが、百歩譲って、そういう前提で見るにしても、そのためにはプロイセンとフランスが隣接する必要があります。


五大国の末席


もともとプロイセン王国はドイツの中でも東のほうにある国で、フランスと領地争いのいくさをする必然性などありませんでした。


18世紀末にフランス革命以降台頭してきたナポレオンの台頭によって、ヨーロッパ全土は戦争の嵐に吹き荒れ、1815年のウィーン会議では、おおむね、フランス革命以前の状態に戻ることが諸国の関心事でした。


当時プロイセンはヨーロッパ五大国の1国にありましたが、末席に立場にあったために、18世紀にポーランドで獲得した地歩を回復したかったのを、ロシアに邪魔されてしまいました。その代償として得たのが西部のラインラントでした。すなわち、フランスと隣接することとなりました。


望まぬ戦いへの道


プロイセンはウィーン会議にって領地の拡大をなし得たとは言え、それは飛び地の獲得でしかなく、しかも、フランスとの隣接はますますプロイセンにとって負担を強いるものでした。なんといっても、腐っても鯛で、フランスは曲がりなりにもヨーロッパ五大国の1国であり、これでプロイセンは都合3つの大国(フランス、オーストリア、ロシア)と隣接するすることとなり、侵略どころか、踏み潰されないことを考えなくてはならなくなったのです。


ポーランドなどは弱小国でなかったにもかかわらず、より強力な複数の大国に隣接していたことが国土分割の悲劇をもたらしたものです。


フランスの野望


こうした環境の中ではプロイセンとしては、自身の領地拡張の野望に走るよりもヨーロッパの平和に手を貸すことのほうが好ましいと考えた訳で、ウィーン会議の中でできたドイツ連邦の1国として33年間他のヨーロッパ諸国との共存に邁進してきましたが、1848年に起こったフランス2月革命でルイ・ナポレオンが台頭し、4年後に皇帝として即位すると、この平和が怪しくなってきました。


このころから顕在化してきたオーストリアとプロイセンとの対立を利用して、ナポレオン三世はルクセンブルクやライン川西岸に対する領地拡張を意図するようになったのです。


これに対してプロイセンはプロイセンの安泰を図れば事たれりだったのですが、オーストリアと違って、ほとんどドイツ人で国民が構成されていたことから、ドイツナショナリズムの旗頭として期待されていたことから、これに振り回されることとなりました。これを味方にとどめておかなければこれからの戦いに勝利できないと言うジレンマに立たされていました。


1866年のオーストリアとの戦いに勝利した後も、依然プロイセンはフランスに対して決して優位に立てる状態にありませんでした。北部のドイツ諸国の旗頭として北ドイツ連邦を作ってもです。要するに、フランスと比較した場合、まだ小さかったと言うべきなのです。


プロイセン防衛のための統一


オーストリアとの戦いに勝利したプロイセンに対してフランスは見返りを提供するように圧力をかけてきました。フランスの側からすれば、わが国が黙っていたから勝利できたのだぞ。もし、オーストリアの味方をしていたら、敗北したのだ、と言うことで彼らにしてみれば、当然の要求と言うことなのでしょう。


フランスの要求はプロイセンに対してではなく、ドイツに対するものなので、プロイセン以外からも割を食う国が出るために、ドイツナショナリズムを味方にとどめておくためにも座視できるものではありません。


そして、いったんこの戦いに勝ったとしても、後々フランスが報復に出る可能性が高かったので、それに対する防衛と言うことも考えなくてはなりませんでした。特に南西部にあったヴュルテンベルク王国などは、いったんフランスがいくさを仕掛けてきたら、敵が自国奥深く攻め込んでくるだろう事を恐れていました。


ここに、エルザス・ロートリンゲン領有の必然性が生じてきたわけです。ただそれはヴュルテンベルクの都合であって、プロイセンからすれば、必要のない土地なのですが、ヴュルテンベルクにそれだけの力がないためにプロイセンが代行しなくてはならなくなりました。


しかし、そうするためには単なる同盟関係では駄目で、統一が不可欠となった訳です。いったん統一してしまえば、帝国直轄地(ドイツ帝国成立の後も存続したプロイセン王国とは別)という形で領有することができる訳です。


実際、普仏戦争はドイツ連合軍(北ドイツ連邦軍とこれと同盟していた南ドイツ諸国)がパリまで攻め込んだにしては、エルザス・ロートリンゲンだけが割譲の対象となったに過ぎませんでした。侵略戦争という前提からすれば少なすぎる!


かくして普仏戦争での勝利を通じてドイツ帝国が成立しました。


つたない内容だと思いますが、いかがですか。次回を乞うご期待。(^0^)/^^^^^


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テーマ : 歴史 - ジャンル : 政治・経済

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コメント

>つたない内容だと思いますが、いかがですか

(*´∀`)アハハン♪
おもろかったっス。
次も・・・
ガン( ゚д゚)ガレ!!

かっぱやろうさんへ

たびたびの訪問ありがとうございます。

>(*´∀`)アハハン♪
おもろかったっス。
次も・・・
ガン( ゚д゚)ガレ!!

ご声援ありがとうございます。ヽ(*´∀`)ノ キャッホーイ!!

第二帝国ですね。
大モルトケさんの頃だったっけ?

やっぱり地図が欲しいな……(´・ω・`)
今とは国境線がだいぶん違うし。
プロイセンが現ポーランドだという事も知らん人も多いと思う。

阿麗☆さんへ

たびたびの訪問ありがとうございます。

>やっぱり地図が欲しいな……(´・ω・`)
今とは国境線がだいぶん違うし。
プロイセンが現ポーランドだという事も知らん人も多いと思う。

これを解決するには歴史本しかないでしょう。
「プロイセンの歴史」ゼバスティアン・ハフナー著←これは結構高い。まあ、山川出版社の世界歴史体系ドイツ史にはかないませんが。2巻が5500円、3巻が5619円でした。

プロイセン自体が、今や存在せず、歴史上だけの名称ですからねぇ。
ケーにヒスベルク、ポーゼン、ブレスラウ、ダンツィヒ、シュテッティン。これらの都市も今やドイツ領でないために、別の名前が付けられていて、どこなのかも分からないでしょう。

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